Mermaid ― 夢追う瞳

Mermaid ― 夢追う瞳


 車通りも、人通りも多い都会の道。朝の喧騒も手伝って、隙間を縫って歩くのが難しいくらいである。
 ビルとビルの間から日の光が射し込む中、1人の女性がガードレールに背を預けて座っていた。
 年のころは20代後半。緩やかにウェーブした茶色の髪を左手でくるくると遊びなら、木箱の上に座る彼女の耳には、絶えずさざなみの音が聞こえていた。
 そんな彼女の前を、3人で一緒に歩いてくる高校生の女の子たちが通りかかった。ふと、さざなみが止んだのに気づいて視線を動かすと、立ち止まったひとりの子と目が合った。腰まである黒くてきれいな髪の彼女は、友人に呼ばれるとすぐに行ってしまったが、女の顔には笑みが浮かんでいた。
 その耳には、再びさざなみの音が聞こえていた。



「希依(きえ)さん、おはよう! あいかわらず早いわね」
 希依と呼ばれた女は、ポンと肩を叩いてきたクリーム色のスーツを来た女の人に微笑んだ。
「朝が1番好きなんです。爽やかで、すがすがしくって」
「確かにそれは一理あるわね。ところで…どう? 頼んだ絵のイメージは湧いたかしら?」
 茶色く染めたショートの髪をかきあげながら女が聞いた。
「綾子(りょうこ)さん…毎日それを聞きますね」
「いいじゃない! 依頼主としても、あなたの絵のファンとしても気になるものは気になるのよぉ…」
 ふふふっと小気味よく笑う綾子に、目を細める。
「ちょっとしたイメージですが、浮かびましたよ」
「ホント!? どんなのなの?」
 子どものようにワクワクした顔で自分を見る綾子から視線を外し、目の前のビルの入り口横 ―― 殺風景な灰色の壁面に移した希依の漆黒の瞳は、どこか遠くを見つめていた。
「…青色です」
「青?」
「はい、まだそれだけです。綾子さんの条件を満たすようなものももちろんまだ……」
「そう。でも楽しみだわ。ここにあなたの絵が描かれるんですもの」
 綾子はそう言うと、自分のビルの壁面を見た。その顔は本当に嬉しそうで、彼女の瞳にはもう、希依の絵が見えているかのようだった。
「そろそろ行くわね。あ。昼食は必ず食べなさいよ? 希依さんは、時々食べることも忘れてここにいるから…」
「わかりました。気をつけます」
 クスクスと希依がそう言うのを見て1つうなずいた彼女は、向かいのビルに消えていった。


 その日の夕方、未だにその場所で座っている彼女に会いに来た女性がいた。
「希〜依っ! 夕飯持って来てあげたわよ」
「美優(みゆう)」
 頬にかかる程度の黒髪は、きれいに切りそろえられ、シャープな感じがかもし出されていた。春らしい色でまとめられた服を着た彼女は、どこかで買って来たらしい弁当屋の袋をぶら下げていた。
「あんたのことだから、食料調達に行ってる間にいいアイデアが通りすぎるんじゃないか…って心配して、買いに行くつもりもなかったでしょ?」
「あったり〜」
 にっこり笑って見せる友人に、苦笑しながら、袋の中から弁当を1つ出した。
「はい、あんたの分」
 希依は左手でそれを受け取ると、一度膝に乗せてからまた左手でふたを開けた。右手は弁当が落ちないように側面を支えてはいたが、あまりうまく動かないようだった。スプーンを袋から出し、美優が買ってきてくれた中華飯を口に運ぶ。
 美優はそれを見ながらガードレールにもたれて、袋に残ったもう1つの弁当を取り出す。彼女が無言で手を合わせて食べ始めると、希依がスプーンの動きを止めた。
「……あのね、美優」
「なぁに?」
 美優は横目で彼女を見ながら、おかずのエビフライを口に運んだ。
「今朝、高校生の女の子がわたしを見て立ち止まったの」
 希依の瞳は向かいのビルの壁に向けられ、その時のことを思い出しているようだった。
「好奇の目でわたしを見てても、通りを歩く人の波は止まらなかった。でも、初めて1つの波が立ち止まったよ」
「…それで、何か浮かんだの?」
 美優が、買って来たペットボトルのお茶を一口飲んでそう聞くと、にこりとそちらを見る。
「うん。ちょっとだけ何か見えてきた感じ」
「ちょっとだけね〜。あんたはそこからがまた長いでしょ? まだしばらく夕飯デリバリーはやめらんないか」
 あ〜あ、と言いながらもその瞳は笑っていた。
「ありがとね、美優」
「いーえ。希依が餓死でもしたら、あんたを応援してる“足長おじさん”も悲しむしね」
 “足長おじさん”という言葉に希依がため息をついた。
「“足長おじさん”はどうしてわたしに援助してくれてるんだろうなぁ…」
「…そりゃ、あんたの絵が好きだったからじゃないの?」
「そうだったら嬉しいけど」
 くすりと笑う彼女は、再び口に夕飯を運び始めた。その目は再びビルの壁に向けられ、耳には波の音だけが聞こえていた。


 土曜日 ―― もうすぐお昼になる頃のことだった。
 希依は、ひとり歩いてくる女の子に気づいた。濃い緑色のブレザーに身を包んだ彼女は、何日か前に自分と目の合った少女だった。
「こんにちは」
 にこりと微笑みながら声をかけると、びっくりして立ち止まった彼女は、ペコリとお辞儀した。
「土曜日に学校?」
「は、はい。補習があって……」
「あぁ、桜崎(おうさき)って進学校だもんね。大変だね」
 制服から、この近くの桜崎高校の生徒だとわかっていた希依がそう言うと、彼女は反応に困った顔をした。
「…ごめんね。いきなり声をかけて」
「いえ…」
 小さく横に首を振った少女は、その場から動こうか動くまいか悩んだ末、後者を選んだ。
「あ、あの……お姉さんはいつもここで何をしてるんですか?」
「わたし? わたしはそこに絵を書くためにいろいろ考えてたの」
 言いながら、左手で向かいの壁を指差す。
「あの日、あなたが立ち止まってくれたおかげで、ちょっとだけイメージができてきたの。ありがとね」
 自分の微笑みにぎこちなく笑い返す彼女に、あの日からずっと聞きたかったことを聞いてみた。
「ねぇ。あの日、なんであそこで立ち止まったか聞いてもいい?」
「……みんなどこか切羽詰まったような表情で歩いてたのに、あなたは違ったから…です」
「どんな表情に見えた?」
「………ちゃんと何かを見てる気がしました」
 真剣な瞳でそう言った少女に、希依は目を細めた。
「ありがと。そんな風に言ってもらえて嬉しい。……もし時間があるなら、もう少し話に付き合ってもらってもいい?」
 少女は驚きつつもこくりとうなずき、希依に招かれて隣に立った。
「わたし、鮎川希依(あゆかわきえ)。まだまだ売れてないけど、絵を描いて暮らしてるの」
「あたしは…黒部結花(くろべゆか)です」
「結花ちゃんか。今何年生?」
 自分を見上げてくる希依を見ながら、小さな声で話す。
「高二になりました」
「進学校だと高二でもいろいろ大変でしょう?」
「進路希望調査も早くて…もう今から受験勉強してるみたいです」
 それが辛いのか、苦笑している結花に聞く。
「……勉強は嫌い?」
「あんまり好きじゃないです。でも、勉強しないといい大学に入れないから……」
「今の時代はそうだよね。それが悪いとは言わないけど、あんまり好きじゃないな……と言っても、社会全体がそういう雰囲気だから仕方ないかな」
 あははと笑った後、希依は空を見る。
「わたしみたいに、みんなが夢を叶えられたらいいんだけどね」
「………」
 ビルとビルの間から広がる青い空と太陽に目を細めながら笑顔を浮かべている彼女に、結花がぐっと手を握った。
「あたし、このままでいいんでしょうか? ただ親が言うように勉強してるだけで、やりたいこともなくて……」
 目線を下に落としてしまった彼女は、近づいている大きな分岐点に早くも不安を抱いてるようだった。ぽりぽりと自分の左頬をかきながら少し悩んだ希依は、大きく息を吐いた。
「それは……わたしには答えられないなぁ。いいか悪いかは自分が決めるべきことだと思うから」
 視線を上げようとしない結花に、続けて聞かせる。
「勉強は自分のためになるものだから、やっておいて損はないと思う。けど、親が言う通りにするのはよくないんじゃないかと思うなら…今からでも、大学に入ってからでもいいから、自分のやりたいことを探すべきじゃないかな? ……な〜んて、結花ちゃんとおんなじ経験をしてないわたしが言っても説得力ないんだけどね」
 肩をすくめて笑う希依に、結花が視線を向けると、ふっと彼女の表情が真剣になった。
「もしね、あなたにやりたいこととか…夢ができたなら、あきらめないで」
「希依さん?」
「これはわたしの体験談だから、自信持って言える。どんな夢でも、あきらめなければ叶うんだから」
 見ていると、その漆黒の瞳に吸い込まれそうなほど、希依の目は透き通っていた。
 結花はその言葉を胸のうちでくりかえす。そして、一度大きくうなずいた。


 希依が、結花とまた会う約束をして別れたその日。綾子が昼食を持ってやってきた。
「どう? 調子は」
「順調にイメージが固まってきてますよ」
 コンビニで買ってきたおにぎりをほおばる綾子は、自分を見上げる希依におにぎりを1つ差し出す。
「何か得るものがあったの?」
「はい、ついさっき」
 丁重に断ったが、無理やり手におにぎりを渡された希依は、ペコリと頭を下げた後、それを膝の上に置いた。そして、先ほど結花と話した内容を簡単に説明した。
「……このまま流されていていいのか、って悩んでいるのね」
 綾子がふむふむとうなずきながらそう言い、苦笑した。
「目指す夢があったらあったで悩むこともあるのにね」
 年下の絵描きの向けてくる静かな黒い瞳に促されるまま、続ける。
「若い頃はたくさんの夢を見た。その中から1番やりがいがありそうな今の仕事を選んだけど…それでよかったのかっていつも思うわ」

 綾子は20代でコンピュータ関連企業を立ち上げていた。
 最初はほんの小さな会社だったが、約15年のうちに軌道に乗せ、発展させ…そんなに大きくはないが、自分のビルを持てるくらいになったのだった。
 今でもやりがいのある仕事だ。
 しかし、この仕事以外にもやってみたいことがたくさんあった。子どもの頃の彼女は、人一倍夢を見る少女だったから…。
 この仕事を選んでいなかったら、どうなったのか。今より楽しくて、やりがいのある何かに出会えたかもしれない。
 仕事が辛い時、どうしてもそんなことを考えてしまうのだった。

「希依さんは、真っ直ぐな瞳で夢を追えていいわね」
 綾子の顔に浮かぶ綺麗な笑みに負けないような笑みを返した希依は、視線を自らの絵で埋めるはずの壁に向けた。
「この夢を真っ直ぐ追えるようになるまでには、少し時間がかかりましたけどね」

 小さい頃に見た有名な画家の絵。希依の画家になるという夢は、そんな絵が書けるようになりたいと、軽い思いで追いかけ始めたものだった。
 高校から大学へ進学するころには、幾つかの賞をとったりするようになり、必ず夢は叶うだろう……と思っていた。
 それが崩れたのは、大学三年の冬。車との接触事故で利き手であった右手を傷つけ、二度と筆を持てなくなったのだ。
 ずっと1つの夢を追いつづけていた彼女は、急に目の前から何もなくなりわけもなく不安になった。
 絵の描けない自分など、何もいいところのない人間。居ても居なくても大して変わらない存在だと…涙も出ないが笑いもできない毎日を過ごしていた。
 もし、入院先で心臓病で苦しむ少年に出会っていなかったら、彼女は今、筆をとってはいなかっただろう。彼に、
「ぼくの心臓の変わりになるものはないかもしれないけど、お姉ちゃんにはまだ左手があるじゃないか!」
と言われ、諦める前にまずは挑戦すべきだと教えられたからこそ、もう一度夢を追おうと思えた。
 その後、途中で投げ出さずに左手で絵を描けるようにまでなれたのは、ファンらしき人から送られてくる月3万のお金と、応援しているとワープロで打たれたカード。そして、高校時代からの親友…美優がいたからだった。

「昔の希依さんの絵も、今の絵も…大好きよ? だから、あなたにこの仕事を頼んだんじゃない。期待してるわよ?」
「善処します」
 にこりと笑みを交わしたあと、綾子はまたビルの中 ―― 彼女が、今もなお、夢を追う場所へと戻っていった。


 次の日。壁の目の前に、大きなハケを左手に持った希依の姿があった。
「希依? ここに今日の昼食と夕食置いとくわよ?」
「………」
「希依!」
「え?」
 やっと振り向いた親友に苦笑しながら、食料の入った袋を見せる。
「ご、ごめん! ありがと」
 希依はそれを急いで受け取ると、またやっちゃったという表情で肩をすくめた。
 美優は彼女が夢中になってた対象に視線をやった。灰色だったはずのそこには、青い色がのせられはじめていた。
「……これ、空の絵?」
「ううん、海の絵。ずっと道行く人たちの流れを見てたら、それが波みたいに見えたから……」
 そう言う彼女は目を閉じると、波の音を聞くかのように耳を澄ました。美優にはその音は聞こえなかったが、希依だけ、ビルの中に囲まれたこの場所とは全く違う所にいるように見えた。
「中央には、夢を追う者を描きたいと思ってるの」
 言いながら目を開け、その漆黒の瞳を美優に向ける。
「時代の波に流されないで、夢に向かって一歩を踏み出してほしい……って願いをこめて」
 その瞳に射抜かれ、美優の心臓が跳ねた。しかし、それを気づかせないように笑った彼女は、
「がんばんなよ」
とだけ言って、何駅か離れた自分の仕事場へと向かったのだった。


 梅雨の季節がやってきた。
 珍しく、壁の前に希依の姿はない。その代わりに、白に水色の花が描かれた傘を差した美優の姿があった。
 雨のおかげで希依の作業はあまり進んでいなかったが、上部に青、下部に茶色が塗られ、それが海と陸をあらわしているのだろうということがわかった。
「夢に向かって…一歩を踏み出す……か」
 絵を見つめる彼女の瞳は、真っ直ぐ見えない何かを捕えているいるようだった。しかし、すぐに首を振って考えたことを頭の中から押し出した。
 その瞬間、後ろから可愛い声がかかった。
「希依さん? こんな雨の日に絵は描けないんじゃないですか?」
「!?」
 驚いて美優が振り返ると、そこには桜崎高校の制服を着た女の子がいた。
「あ、すみません! 人違いでした……」
 慌ててお辞儀をした黒髪の少女 ―― 結花は、ピンクの水玉のついた傘で自分の顔が相手に見えないようにしてその場を立ち去ろうとする。
「あなた、もしかして…希依の前で立ち止まった子?」
「え?」
 今度は結花の方が驚く番だった。傘をあげてこくりとうなずくのを見せると、美優がにこりと笑う。
「あたし、希依の高校時代からの友人で高田美優(たかだみゆう)って言うの。前にあなたの話を聞いたことがあるのよ」
「そうなんですか……」
 少し警戒していた結花の身体から力が抜けるのを見ながら続ける。
「あなたのおかげで、絵のイメージが湧いてきたみたい。どうもありがとう」
「いえ、あたしなんかただ話をしただけで何も……」
 左右に細かく首を振る少女に、ふふっと笑って肩をすくめてみせる。
「それがあのころの希依には必要だったのよ。2月に仕事を頼まれて以来、ずっと絵のイメージを決めかねてたあの子には」
「……これ、海の絵ですよね?」
 結花は美優の後ろに広がる青と茶の世界に目をやった。
「えぇ、そう聞いたわ。中央には、夢を追う者を描きたい……とも言ってた」
「夢を追う者……」
 2人は並んでその絵を見つめる。
 彼女たちの耳には、まだ波の音は届かず、ただ、しとしとと降る雨音と走る車のエンジン音が響いていた。


 6年前 ―― 希依と美優が大学3年の冬。希依の人生が一転したその日も、雨が降っていた。
 一緒にショッピングに行こうと約束していたのに、講義が伸びて遅刻しそうだった美優は、待ち合わせ場所にいた希依を見つける。
 丁度車道を挟んだ反対側で。
「今行くから待ってて!」
 傘を振りながらそう言って、ガードレールの隙間を抜け、駐車されていた車の間から車道へと出た。片側1車線のそれほど広くない道。何の気なしに渡りだして向かい側を見ると、そこにあったはずの希依の姿がない。不思議に思った次の瞬間、大きなクラクションの音とともに、耳元で危ない、という友の声が聞こえた。

 寸前で突き飛ばされた美優は打ち身と擦り傷程度ですんだが、代わりに車とぶつかった希依は右手の機能を殆ど失ってしまっていた。
 あの時、自分が横断歩道を使っていれば……。
 友の怪我は自分のせいだと、何度自分を責めたかわからない。いくら償っても償いきれないことなのに、謝る彼女に希依はただ笑うのだ。美優が無事でよかった、と。
 それを見た時、美優は、事故にあったおかげで自分の胸の中に芽生えた1つの思いに蓋をした。もう一度夢を追いはじめた友のために、ただ静かに忘れ去ろうとしたのだった。


 雲ひとつない晴天が続き、じりじりと太陽が肌を焼く時期がやってきた。
 ビルの前に、希依と綾子と結花の姿があった。3人の視線は目の前に広がる世界に注がれていた。そこでは、海と陸の狭間で、人間になった人魚姫が新たな世界へと思いを馳せていた。
「波に流されることなく、自らの夢…新しい世界に一歩を踏み出してほしい、と願いをこめて描きました。綾子さんの条件に満たした絵になっているでしょうか?」
「えぇ。ちゃんと『道行く人に何かを与える絵』になってる。ありがとう、希依さん」
 微笑む依頼主に、希依は胸をなでおろす。
「……希依さん」
「なあに? 結花ちゃん」
 絵を見つめたまま自分を呼ぶ年下の友に視線を向ける。
「あたし、自分のために勉強したいと思います。そしていつか、夢を見つけたい……」
 彼女の瞳は真っ直ぐ自分の未来を見つめているように見えた。
「そうやって思ってもらえれば、この絵もわたしも嬉しいな」
「美優さんは、仕事なんですか?」
「うん。休日出勤しなきゃいけないなんて…OLもなかなか大変だよね」
 肩をすくめた希依は、仕事が終わったら来ると連絡のあった友人の顔を思い浮かべた。
 美優にも、伝わるといいんだけど……。
 希依はそう思いながら、自らが描いた絵を見つめていた。


 夕方。雑踏の中、希依の絵の前で立ち止まる美優の姿があった。
 彼女の耳には、周りの騒々しい音ではなく、波の音だけが聞こえていた。 そして…

―― 夢に向かって一歩を踏み出してほしい

 希依に言われたその言葉が頭に浮かぶと同時に、蓋をしたはずの思いがあふれ出しそうになっていた。
「もう、わたしのことは気にしないでいいんだよ? 美優」
 いつの間にか、隣に希依が立っていた。
「入院してた時にも言ったけど、美優が無事だったらそれでよかったんだよ? わたしには、また追いかける夢ができてたんだから…」
「いくら希依がそう言ってくれても……自分で自分が許せなかったのよ」
 美優は、親友の言葉に自分の顔が歪むのを止められなかった。ぐっと手を握って涙だけはこらえる。
 そんな彼女の様子を見て、希依がふぅっと息を吐いた。
「……だから“足長おじさん”を装ってわたしにお金を送ってくれてた?」
「希依、知って……?」
 まさか希依がそのことを知っていると思っていなかった美優が視線を寄せると、彼女は肩をすくめて苦笑していた。
「美優の考えそうなことなんかお見通しに決まってるでしょ」
 その顔につられて、笑みがこぼれた。希依はそんな彼女に、少し分厚い封筒を差し出した。
「これ、返すね」
「?」
「“足長おじさん”がくれたお金、使わずに貯めておいたの」
 美優は目を見開く。
「今度は、美優が自分の夢を追うために使って?」
 にこりと微笑む友の思いに、今度こそ耐えられなかった涙がこぼれた。希依はそんな彼女をぎゅっと抱きしめると、暮れていく空を見上げた。
 空にはキラリと1番星が光っていた。



 それから数年後。

 美優は入っていた会社を辞め、もう一度学校に通って、夢であった看護士になった。
 結花も大学でみつけた夢…人を教える立場を目指し、現在も勉強を続けている。
 綾子は自分の選んだ夢に誇りを持ち、現在も仕事に励んでいる。
 希依は“人に何かを与えられる絵を描く”を新たな目標に、今も左手で筆を握っている。


 彼女らの耳には、絶えずさざなみの音が届き、その瞳は、近くて遠い自らの夢を追っていた。

- end -

2013-11-23

学生時代に台本にできたら、と考えていた話を小説にしてみました。
登場人物が女性ばかりなのは、その影響が残っているからです〜


屑深星夜 2006.2.22完成