「危ないっ!!!!」
パッパ―――――――!!
キキキキキキキ――――――――ッッッ
ドンッ
薄れゆく意識の中。覚えているのは、腕の中のぬくもりと…1つの声。
やっと…やっと君に会いに行ける。あと少しだから、もう少し待っていて ―― あかさ。
*****
「はい、どうぞ」
男はそう言うと、パンパンに膨らんだ買い物袋を、玄関先に立つ中年の女性の足元に置いた。
「御苦労さま。ありがとねぇ! おばさん助かっちゃったわぁ〜」
「いえいえ〜」
松葉杖をついた彼女にバシバシと腕を叩かれても貼り付けた笑みを崩さない男は、浅黄色の和装に身を包み、祭りでもないのに足元は地下足袋。その上、茶色い頭には…赤の線が目立つ狐の面をつけていた。
「これ、お代ね」
「今後ともどうぞご贔屓に」
500円玉を受け取った彼は、眼鏡の奥から覗く優しげな瞳を細めてその家を後にした。
*****
バターンッ!!!
勢いよく開けられた扉に貼られた『万屋 狐』という紙がヒラヒラと揺れた。が、開けた方はそんなことには興味ないとばかりに、肩で激しく息をしながら懐に手を突っ込んである物を取り出した。
それは、銀色に輝く…紐。
輪になっているが、伸ばせば40センチほどになるだろうか。
男は真剣な表情でそれを隅から隅まで確認すると、ガックリと肩を落として膝をついた。
「あ―――……またダメか!! 一体どうすりゃ“心からの感謝の言葉”がもらえんだよぉっ!!」
「阿呆」
よく通る女の声が聞こえた、と思えば、カランと音を立てて床に落ちた狐の面が口を開けた。
「何度も言っておるだろう? “心から”というくらいだ。それに見合う願いを叶えんでどうする!!!」
「そうしたいのは山々だっつーの!! けど、まずはこの『万屋』の知名度を上げんのが先だろ? じゃなきゃそういう依頼すら来ねぇだろっ!」
強い口調で話す面に、己の頭を掻きながら答える男の表情には全く余裕がない。
外見は20歳ほどに見えるが、その様子を見ると少し幼く見える。
「あぁ!! もうっ!!」
ドン、と叩いた床の上でカタリと面が鳴る。しかし、それすらも気にすることのできない状態の彼は、宙に向かって叫び出した。
「そもそも何だよ!!! “108つの感謝を集めろ”って!!! 神様のくせに仏様みたいなこと言いやがって!!!!!」
それは、今まで言いたくても言えなかったこと…いや、言いたくても言ってはいけないことで。抑えに抑えていたが、『万屋 狐』を始めて1ヵ月。
未だになんの成果もない焦りが、彼の理性をどこかへやってしまっていた。
ポカッ
「ってぇ!!」
いきなり頭に感じた痛みに顔をしかめた彼は、殴った人物。自分の目の前に浮かぶ…小さな獣を睨みつけた。
男の鋭い視線を真っ向から受け止めるそれは、9つの尾を持つ赤い毛皮の狐。
ふぅ、とため息をつくハンドボールほどの大きさの九尾〔キュウビ〕は、前足を青年の目の前に突きつける。
「空〔ソラ〕、落ちつけ。一時の激情で暴言を吐き、己の願いを潰しては元も子もないではないか」
「う……」
「神には神の事情がある。同じように、そなたにはそなたの、我には我の……事情がある」
体毛と同じく真っ赤な瞳を細めて一瞬黙り込んだ九尾だったが、すぐに首を振ると、空と呼んだ男の頭に乗ってポンポンと頭を叩く。
「この九尾の紅〔ベニ〕様が手伝ってやっておるのだ。早く成果を出して、その身体を返してもらわねばな」
「俺だって……俺だってそうしてぇよ―――――っ!!」
空の叫びは辺りに響き渡りながら、風に溶けて消えていった。
*****
ひと月ほど前の朝。
空 ―― 端畑 空〔ハバタケ ソラ〕は、今年から通い始めた高校へ行くために、最寄りのバス停へ歩を進めていた。
その途中で事件は起こった。
“何か”が道路に飛び出したのだ。
影の大きさから言って、人間ではない。きっと、里山に住む動物であろう。
街から少し離れたまだ自然が多く残る地区に住んでいるため、よく見る光景ではあった。
ただ、時間帯が時間帯だ。
通勤の車がたくさん行き交うそこに、躊躇いもなく飛び込んだ“何か”に思わず身体が動いていた。
飛び出した先は、車の目の前。
腕の中に“何か”のぬくもりを感じながら、空は意識を手放した。
*****
次に目覚めたとき。空の前には紅がいた。
それも手乗りサイズではなく…人間の3倍はあるかという巨体。大きな口の中で光る牙に動けずにいるうちに、衝撃の事実を聞かされた。
端畑 空の身体は死にかけている、ということ。
空の魂が別の者の身体に入っている、ということ。
己の身体に戻るためには、神様が出した課題…“心からの感謝の言葉を108つ集め、数珠を完成させる”…を達成しなければならない、ということ。
その身体は紅の旧友のものであるため、力を貸してやる、ということ。
全て、空には信じられないことだったが、鏡を見れば己の姿が違うという事実。そして……病院で目の当たりにした、眠り続ける“自分”。
この2つが、空に前を向かせた。
とっさに“何か”を助けて死を覚悟した。
それが、こんな形ではあるが一命を取り留めることができた。その上、やらなければならないことはあるが、まだ、己として生きる道がある。
なら、やるしかねぇだろ!
『万屋 狐』を開いたのは、それからすぐのことだった。
*****
いつの間にか紅は狐の面に戻り。空は自分の気持ちが落ち着くまで存分に床の冷たさを味わっていた。
このまま無為に時を過ごしていても仕方がない、とやっと考えることができるようになった空が立ちあがったとき。開け放たれたままだった扉の向こう側に、タモを持った8歳くらいの女の子がいたのに気がついた。
「お客さん…かな? この時間だとまだ学校じゃねぇのか? どした?」
「今日はお休み」
黒いレギンスの上にワンピース風のTシャツを着た少女は、真っ直ぐに空を見上げて言った。ポンポンとその頭を撫でてやりながら視線の高さを合わせた空はニッと笑いかける。
「そか。で、どうした? 『万屋』になんか頼みごとか?」
「探してほしいものがあるの」
はっきりと告げた彼女の声は、とても真剣なものだった。
*****
彼女 ―― 坂田 可奈〔サカタ カナ〕の願いは、近所の公園の池にブローチを落としてしまったからそれを探してほしい、というもの。
買い物の次は失せ物探しか、と思わないでもなかったが、空にはやらねばならないことがある。
ふたつ返事でその依頼を受けた彼は、紅に仕える9つの狐火たちの力を借りつつ、浅い池の中に入って底を探っていた。
池の端から様子を窺う可奈の視線は空から外れず。狐面になっている紅は…空の頭上からずっと彼女の姿を見ていた。
*****
日が傾きかけ、公園で遊ぶ子どもたちの声が少なくなったころ。空の持つタモの中にキラリと光るものが入っていた。
「あ―――!! あった!! これっ、これか!?」
バシャバシャと水を跳ね上げながら可奈の元へ走ってくる空は、水浸しの泥だらけ。その整った顔も泥で汚れ、長い髪にも乾きかけた土がくっついているのが見て取れた。
彼の手の平の中には、白い石に花が彫られたブローチ。
それを確認したことで、やっと表情を緩めた可奈は、依頼をやり遂げた喜びに浸る空をおずおずと見上げる。
「もう1つだけお願いしてもいい?」
「ん?」
「それ、あの子…菜々香〔ナナカ〕ちゃんに渡してほしいの」
指差す先には、砂場に座り込んで遊ぶ1人の少女がいた。
「そりゃ…別にいいけど、友だちなんだろ? 自分で渡せばいいんじゃね?」
「いいから、お願い!」
手を合わせて頼み込む彼女に、息を吐いた空は…わかった、と言いながら砂場へと歩いて行った。
歩くたびに時下足袋から水が飛び出し、ビチャビチャと音が鳴る。
地面を少しずつ濡らしながら近づいてくる影に、少女 ―― 新海 菜々香〔シンカイ ナナカ〕の方が先に気づいた。
「あ、池で何か取ってたお兄ちゃんだ」
ニコリと笑って空の方に近づいてきた彼女に肩を竦める。
「おう。見てたのか?」
「うん! ねぇ、何かいた?」
「あぁ、こいつを探してたんだ」
差し出したブローチを見て、菜々香は目を丸くする。
「これ……」
「坂田 可奈ちゃんから頼まれたんだ。君に渡してほしいって」
「可奈ちゃん…? うそ!!」
叫んだ彼女は急に後退り…さっきまで笑っていた顔は強張って微かに震えていた。その様子を不思議に思いつつも、可奈に依頼されたのは嘘ではなかったので、空は優しく微笑みながら首を振る。
「嘘じゃないよ」
「うそだよ!! だって、可奈ちゃんは1ヶ月も前に死んじゃったんだよ? 交通事故で…」
空は、目を見開いた。そのとき、
ふわり
人には見えない紅の狐火が1つ浮かんで、空にある出来事を見せてくれた。
*****
「お母さんに買ってもらったんだ〜」
そう、クラス中の女の子に見せて回る菜々香が羨ましかった。
家も近くて、両親ともに共働き。同じ月に生まれた1人っ子で、勉強よりも外で遊ぶ方が好き。
似たところの多かった可奈と菜々香は小さな頃から仲良しだった。
それなのに。
彼女“だけ”のブローチ。
それを自慢して、1人だけクラスの子の注目を浴びているのが悔しかった。
だから、よく2人で遊んでいた公園で、見せて、と言って預かったブローチを素直に返せず、ケンカになった。そして、怒った菜々香が飛びついた衝撃で持っていた手からブローチがすっぽ抜け……池に、落ちた。
菜々香の泣き顔。
見た瞬間、己の血がザッと引いた。
家に泣き帰った菜々香の背を見て、可奈はブローチを探して返さなければ、とそれだけを思って家からタモを持ちだして再び公園へ向かった。
彼女が車にひかれたのは、その道中だった。
*****
泣かせるつもりなんかなかった。ただ、ちょっとだけ…ちょっとだけ、意地悪したかっただけなの。
可奈の声が聞こえてきて振り返ると、いつの間に側に来ていたのか。1歩後ろに立っていた彼女は、潤んだ瞳で友の姿を見ていた。
その様子に大きく息をした空はゆっくりと奈々香に近づくと、片膝をついて目線を合わせた。
「……可奈ちゃんね、ずーっとこれを返したかったんだって。受け取ってくれる?」
柔らかなその声に、奈々香の肩の力が抜けた。
「…うん…」
彼女はしっかりと頷き、小さな手にそれを握った。頬は…溢れる涙で濡れていた。
「お兄ちゃん、ありがとう」
渡してくれて、ありがとう。
未だ悲しみの色濃いものだったが、微かな微笑みとその言葉に、空の懐が僅かに光った。
差し込んだ右手でしまってあった紐を握ると、そこには数珠球が2つ。
残された言葉と同じ温度が感じられた。
*****
「にしても…最初の成功例が幽霊からの依頼とはなぁ〜…びっくりだぜ」
『万屋』に戻って来た空は、部屋にあるソファーに座り、銀色の紐に煌く透明な玉を見ていた。
いつの間にか汚れはすっかり綺麗になっており、ここを出る前と遜色ない姿。
どうやら紅が妖術を使ったようだった。
その紅は、というと手乗りサイズに変化し、ソファーの目の前にある机にちょこんと座っている。
「そなたの身体は人のものではないからの。ああいうものも見えるだろうよ」
「……はぁっ!?」
聞こえてきた言葉に、空は自分の耳を疑った。
『そなたの身体は人のものではない』
手や足…己の全身どこを見ても人そのものであるのに、違うとはどういうことか。
空は、頬をピクピクさせながら紅に問う。
「そ、それ…初耳なんだけど?」
「あぁ、今言ったぞ」
全く悪びれた様子のない九尾に、
バンッ!
空は、テーブルを叩いて立ち上がる。
「んな大事なこと、何で今まで言ってくんなかったんだよ!!」
「そもそも人ではない我の旧友の身体だぞ? 人でなくて当たり前であろ?」
「っ!?」
確かに、と思わず納得してしまう答えに言葉を失う。しかし、空がそのことを思い当たらせないほどに、この身体は人にしか見えなかったのだ。
口をパクパクさせるだけの彼に、紅は鼻で笑って見せる。
「とにかく、この調子でもっと働け。そしてその身体から早う出てゆくのだ!」
「あーもー……俺だって早く戻りてぇよ! ……にしても、紅がそんなに拘るってことは…この“人”、紅にとってそんな大切なやつだったわけ?」
面白いことに気づいた、とでも言うように“自分”を指差す空から視線を外す。
「そなたに話す義理はない。壱火〔イチカ〕!」
呼ぶと同時に紅が1本の尻尾を叩くと、ボワンという音と共に煙を立てて紅とさほど大きさの変わらない1匹の狐が現れた。
「はいぃ! アカ様」
糸のような目をしたそれは、紅を“アカ”と呼びながら頭を垂れた。
「我は1度ねぐらに戻る。空のお守りは頼んだぞ」
「はいな!」
「ちょっ!?」
元気よく返事をして顔を上げるのを見て、空は情けない声を上げる。
「お守りって…そりゃねぇだろぉ?」
「我からしたらそなたなど赤ん坊以下よ。お守りで十分」
ニヤリ
そんな笑いを残して、紅は一瞬にしてテーブルの上から消えてしまった。
「くっ…くっそー!!!」
残された空は、壱火に見守られつつ宙に向かって声を上げることしかできなかった。
*****
ピッ…ピッ…ピッ…ピッ…
闇に支配された夜。月明かりに照らされて白い壁が微かな光を発している部屋に紅がいた。
ベッドヘッドに書かれている名は『端畑 空』。包帯の巻かれた頭から覗く黒髪に、ここひと月開かれることのない瞳。
まだ幼さの残る姿の彼は、真っ白なシーツの中で眠っていた。
紅は、規則正しく響く電子音を耳にしながらベッド横の椅子に座り彼をジッと見つめている。向けられた視線は“空”に向けられるものとは全く違い、どこか憂いと艶かしさを帯びているようだ。
「のう、碧右〔アオウ〕」
普段の紅からは想像もできないような柔らかで優しい声で呼びかける。
「そこにおるなら早う起きよ。そして我の問いに答えるのだ。そなた……何故、人界などにおったのだ」
しかし、残念ながらそれに答えるものは誰もおらず。目の前の人間はただただ呼吸のみ繰り返すだけで、何の反応も見せなかった。
フゥ…
小さなため息の後で、紅が再び口を開く。
「やっと2つだ」
狭い病室に、小さいけれども電子音に負けない音が広がる。
「…そなたに会えるのはいつになるかの…?」
細められた瞳は、彼ではない誰かを…。そして、ここでない何処かを見ているようで。
紅はその後もしばらくそこに佇み、空の身体を見つめ続けていた。
- end -
2013-11-23
『エブリスタ』にて、ある方のイラストを元に書いたお話です。
設定はすっごく気に入っており、書けるものなら続きを…と思っているものなのですが、同時進行は無理な人間ですので、ここまでで一応完結の短編となっております
いつか…彼らも書いてあげられたら、いいなぁ……。
屑深星夜 2010.10.7完成