Tale of a tale

Tale of a tale


 赤土で焼かれた瓦屋根の家が転々とする、田園風景が広がった窓の外。
 空はカラッと晴れあがり雲ひとつない爽やかな青色だ。 それなのに、おれの口から零れ落ちるのはため息ばかり。
 なぜなら。 外とは対照的に、おれの心の中は黒雲に覆われたどんより空が広がってるからだ。
「こんなとこに来たって意味ないのに……」
 胸の中に溜まったモヤモヤを吐き出したくてひとり言を言っても、何も変わらず。
 反対に、開いた窓の向こう側に存在する、時が進んでいるのか進んでいないのかわからないほど変化のないのんびりした空気に支配された田舎町の様子に、イライラが増すばかり。
 窓枠に頬杖をついたまま空いた右手を耳に持ってきたおれは、その何十回目かの無意識の行動にチッと舌を鳴らす。
「くそっ! ラースにペン置いて来させられたんだった!」
 あれがないと落ちつかないっていうのに、
『これから療養に行くのに、これを持って行ったら意味がないよね?』
有無を言わさぬ迫力を纏った笑顔に、反論しかけた言葉は喉のところで止まってしまった。
 芸術家の彫像が動き出したんじゃないか…ってまことしやかに言われるほど整った容姿のラースは、うちの劇団の団長であり看板役者。

 あぁもう! ご丁寧に流し目までオプションに付けて無駄に笑って見せやがって!

 ファンだったら失神ものでも、学生時代に嫌というほどこの年齢不詳の大先輩のシゴキを体験しているおれには、悲しいかな、悪魔が微笑んでるようにしか見えない。
『書けるようになるまで戻って来なくていいからね』
 この言葉が、見た目に反して厳しすぎるラースの最大限の優しさだってことはわかってる。
“舞台のことは心配しないでとにかく休んでこい”ってことだろうからな。
 けど、今のおれにとっては死刑を宣告されたように聞こえて……。 焦りと苛立ちに支配された思考のまま、無理矢理押し込まれた馬車に乗ってこの田舎町までやってきてしまった。


 こう見えても、おれは劇作家だ。
 昔から本を読むのが好きで、現実のようで現実でない本の中に広がる別世界に憧れていた。 それが舞台への興味に変わったのは…多分、必然だったんだろう。
 台本に描かれた“嘘”を、役者が演じることによって“真”にする。
それによって人に何かしらの感情を与える。
 本以上に魅力的なその世界にはまり込むのにそう時間はかからなかった。
 ただおれは、大先輩のシゴキを受けても演じる側になることはできなかった。 台詞を読むことができても、身体を動かすことができても。 必ずどこかに自分が残ってしまい演技が上滑りする。
『お客様に“嘘”見せてどうするの? “本物”を伝えなきゃ意味がないんだよ』
 ……何度そう言われたことか。
 わかっていても自分を捨てられなかったおれは早々に役者になることを諦め、読書家なことを知ったラースに劇作家への道を示された。
 そんな風に学生時代から尻を叩かれつつ台本を書いていたら、気づけば彼の作った劇団の専属作家に納まっていたんだ。


 まぁ…今のままじゃ、いつクビになってもおかしくないけどな。

 ため息をついて再び外に目を向ければ、いつの間に人が歩いていたんだろうか。 すぐ前の道に、長い金髪を風になびかせる白いワンピースに身を包んだ女性がいた。
「……あ――っ!!!」
その細い腕の中に見覚えのある黒い毛並みを見つけたおれは、思わず声を上げる。
「テイル!」
 いつの間に外に出てたんだ、という驚きを込めて名前を呼べば、にゃ〜、という間の抜けた声が返ってきた。 気持ちよさそうに首元を撫でられたまま動こうとしないテイルに額を押さえると、白い帽子のつばの下から覗く翡翠色の瞳がおれを捕えた。
「この子、あなたのネコちゃん?」
「あ、あぁ」
「とーっても賢い子ね。わたしがおうちでひとり退屈してるのがわかったのかしら。遠いのに遊びに来てくれたのよ」
「遠い…?」
 窓越しにテイルの丸い身体を受け取りながら首を傾げれば、ニコリと微笑んだ彼女が右手を上げる。
「わたしのおうち、この道を真っ直ぐ行ったところにあるの」
 白い指が示す方向を見ると、1つだけポツンと建っている小指の爪程度の大きさの赤い屋根の家が見えた。

 あんなところに家があったのか…。

 ただでさえ町の端にあるこの宿から、更に離れた所にあるんだ。 おれはまずそこに驚き、そしてテイルの行動にも驚かされた。
 『寝子』って語源にピッタリなほど食っちゃ寝してるこいつは、誰から見てもデブネコだ。 基本、家の中でだけで生活し、珍しく外に出るときでさえ1、2軒先まで…という、極度の運動嫌い。 それがあの家まで行ったとなれば……こいつの人生の中で初の快挙だろう。
「あんな所まで……何か迷惑かけなかったですか?」
「ううん、全然。テイルちゃんのおかげでとっても楽しかったわ」
 喉を鳴らしたまま、なぁ〜、と鳴くテイルは実に自慢げで。 それがちょっと気に入らなかったおれは、濡れた鼻をチョイと触ってやった。
 首を振って嫌がる姿に内心でニヤリとしつつ、暴れられてまた脱走されても厄介だと思ったおれはご機嫌取りに頭を撫でてやる。 …と、
「また…遊びに来てくれるかしら?」
こちらを窺う視線と共に、良く響く高めの声が寄せられた。
 おれが住んでる街でもなかなか見ない色白美人が、だ。 少し寂しげな表情でそう言うのに断る男はいないだろ?
「こいつが気に入ったなら連れて行きましょうか? おれもしばらくこの町にいますし」
「ほんとう? うれしいわ!」
 花が綻ぶようにパッと笑顔に変わったその顔は、本当に喜んでいて。
 どうせ今のおれにはやることもないんだ。 宿の部屋に閉じこもってウジウジと考えているよりよっぽどマシだ、と目の前の彼女につられておれも頬を緩めた。
「おれ、カロンって言います」
「アレインよ。よろしくね」
 互いの右手を絡めて握手したおれたちは、明日、会うことを約束して別れた。




 消える。
文字が、消えていく。

 どこを見ても活字で埋まっていたはずの目の前が。
砂漠のように何もない空間に変わっていく。

―― 待ってくれ!

 追いかけても。

―― 消えるな!

 手を伸ばしても。

 霧のように消えていくそれらを。
見ているのは、恐怖以外の何ものでもなかった。





「―――――っ!!!!」
 勢いよく飛び起きた自分の身体はガタガタと震えていて、全身を冷たい汗が覆っていた。 特に酷く振動する右手を左手で抑えつけながら、荒い息を整える。
 療養に来て3日。 家に居たときと変わらない症状に、ギュッと目を閉じる。
「…だから……こんなとこに来たって…意味ないのに……」
 さっさと楽にしてくれ。 …そう思う気持ちもありながら、暗闇に浮かぶラースの笑顔に見捨てられるのは嫌だと思う自分もちゃんと存在していて。 矛盾した気持ちに、思わず嘲笑が浮かぶ。

 書くことが、劇作家であるおれの存在意義。

 それなのに、今の自分はペンを取っても1文字も浮かんでこない。
 今までは息をするように紙の上にサラサラと吐き出せていたのに、頭の中が真っ白で出せるものが何もないんだ。
 こんな経験は今までになく、書けないことがこれほど不安でたまらないことを……初めて知った。
 心的不安は夢にも現れ、ろくに眠れない。

…………眠りたく、ない。

 なら机に向かうまで、とランプの明かりの下でペンを持っても状況は変わらなかった。
 全く意味のない1文字ですら思い浮かばず。 痙攣したように震える腕は、白い紙に線を引くこともさせてはくれなかった。
 自分から何も言ってないけど、いち早く異変に気づいたラースはおれからペンを取り上げた。
 いつ、何を思いつくかわからないから、いつも右耳の上に乗せて持ち歩いていた。 その小さな重みがないことに違和感を覚えるほど、自分の一部になっていたそれを……。
 そして、転地療養だとこんな辺鄙な田舎町に押し込んだんだ。
「どう……しろって言うんだ」
 ようやく治まって来た震えに身体の力を抜きながら、おれは窓の外から覗く闇色の空に目をやった。 星すら見えない暗闇がおれの金色の瞳まで染めてしまったかのように……周囲は黒で塗りつぶされて見えた。




 朝食を食べ終え、テイルをカゴに入れて外に出る。 今日は昨日とは違って白い雲に覆われた空の下、赤茶けた髪を風になびかせながら町外れの家まで歩いた。
 建物の壁も、それと同じ土で作られた塀も蔦状の植物が覆っていて、この家は結構な年月ここに存在しているんだろうと思った。
 コンコン、と音を立ててドアを叩いて待つことしばらく。 昨日出会った優しい笑みがおれを迎えてくれると思いきや、現れたのは不機嫌そうに歪められた顔と不審な人間を見つめる翡翠色の瞳だった。

 ……これ、アレインさん…か?

 たった1度。 それも僅かな間しか会っていない人ではあったが、顔の作りは同じ。
見つめて来る瞳の色も、髪の色も変わらない。
 けれども、昨日とは打って変わって。 だぶついたGパンと肩からずり落ちそうなほど大きなTシャツを着た彼女は、金色の長い髪を頭のてっぺんで団子状にまとめており、何より表情が……別人としか思えなかった。
「……あんた誰?」
 じっと自分を見つめたまま動かないおれに業を煮やしたのか、昨日よりも少し低い、鋭い口調が聞いてきた。
「えっ、あぁ、あの……昨日会ったカロン、です、けど…」
 本人だと思う。 けど、本当にそうなのかはっきりしないまま思わずそう言ってしまったおれに、彼女の眉間に皺が寄る。
「昨日?」
「えっと、宿で……」
 明らかに思い当たる節がない、という目の前の人物にどう説明すべきか…と言葉を濁したとき。 にゃ〜お、と持っていた籠の中から甘えるような鳴き声が聞こえてきた。
「あ、テイル!」
 ハッとしたおれは、中から黒い毛玉状になっている愛猫を取り出して見せる。
「昨日、勝手にお宅にお邪魔したこいつを、おれが泊ってる宿に連れて来てくれたんですが…」
 彼女は手の中にいるテイルをじーっと見ていたが、しばらくして、ふぅ、と息を吐きながら肩を竦める。
「そんな猫、知らないね」
 声も表情も。 彼女の態度に嘘は見えず。 本当なんだろうと思えた。
 けれどもそうだとすると、納得できないことが2つある。
 1つは、今にもおれの手を抜けだして彼女の元に行こうとするテイルだ。
 自由気ままに惰眠を貪るこいつは、気に入らない人物は基本無視なんだが、1度気に入ればそいつが来たときは必ずその手に撫でてもらうまで追いかけまわす。 それが、猫のくせに犬みたいな真似をして…とラースに笑われるほど、しつこい。
 そんなテイルが、己を知らないと言う人物に対して、これほどの執着を見せるのはおかしいだろう。
 そして…もう1つは、昨日、この家にひとりと言っていたアレインさんの言葉。

―― わたしがおうちでひとり退屈してるのがわかったのかしら。

 おれは、この家にひとりで暮らしていると解釈していた。
 まぁ、詳しい話は聞かなかったから、もしかしたらおれの考えが間違ってるのかもしれない。 けれど、どうしても確かめてみたくて今にもドアを閉めて家の中に消えようとする彼女の背中に問いかける。
「あの、アレインさん……ですよね?」
「アレインはあたしだけど? ね、もういい? 忙しいの」
 バタン、と音を立てて締まる扉の前で。 アレインさんに撫でてもらおうともがくテイルを抱えたまま、おれはひとり立ちつくしていた。




 ……どういうことなんだ?

 昨日会った彼女も、今日会った彼女もアレインさんで間違いない。
 でも、昨日と今日の彼女は全くの別人だった。 容姿は同じでも、性格も口調もファッションまでも、ことごとく違う人間。 更に、おれのこともテイルのことも覚えていない。
 嘘をついている可能性がないとは言えなかったが、彼女の声はそれが真実だと思わせる音だった。
 二重人格、だったりするのか。
それとも……?

 おれの疑問は、その夜、宿でジッとしていられずに出かけた酒場であっさりと解けてしまうこととなる。




 カウンターで頼んだビールを飲んでいたら、奥の席に座っていた…多分この町の男たちだろう。 おれより先にやってきていたから、もうどれだけ飲んだかわからないな。 それぞれ顔を真っ赤にしながら、追加で頼んだビールをあおったひとりが話し出した。
「あー…なんだっけかー…ほら、あの子。町外れのー…」
「あぁ、アレインかい?」
「そーそー!」
「ロイド、おめぇよくその名前忘れられんなぁ!」
「あの子の名前忘れちまうなんて、どういう頭してんだよ」
 豪快な笑い声に耳を塞ぎたくなりながらも、おれはその前に聞こえた名前が気になってしまい、テーブルにビールを置いて彼らの話をじっと聞いていた。
「で、どうしたんだよ?」
「それがなー…ハミル。あの子、まーたうちに働かせてくれって来たんだよー」
「俺んとこにも来たぜ。5日前だったかな?」
「エッシさんとこもかー。何度来たって1日だけじゃ雇えないってのにねー」
「仕方ねぇだろ。断ったって意味ねぇんだからよ」
「アレインにとっちゃ、いつでも“初めて”なんだからねぇ」
「それ、どういうことですか?」
 意味深な言葉が気になって、席を立ったおれは彼らに問いかけた。 すると、筋肉も脂肪もついた身体つきのいい髭面の男 ―― 多分、エッシと呼ばれた男だろう ―― が首を傾ける。
「あん? 兄ちゃん見ねぇ顔だな」
「旅行者かー? そういやちょっと前から宿屋に誰か泊ってたなー」
 間の抜けた喋り方をする彼は、ロイドって人だろう。 金茶色の髪は白髪が混じっているだけでなく、埃か何かを被ったかのように白くなっている。
 そんなニコニコと人の良い笑みを浮かべている彼に頷いて返事をする。
「それ、おれです」
「そうかいそうかい。久々の客にスクラオも喜んでるよ」
 スクラオと言うのは、話の流れからすると宿屋の主人の名前だろう。
 額に緑色のバンダナを巻いたハミルは口の端に笑みを浮かべてそう言うと、指先でおれを呼んだ。
 少人数とはいえ、他の客もいる店内だ。 離れた席で話していたら邪魔になるからだろう。
 おれは、その申し出に甘えて自分のジョッキを持って彼らのテーブルについた。
「アレインにとってはいつでも“初めて”って、どういうことですか?」
 さっきよりも声のトーンを落として気になっていたことを聞けば、酔っているのを忘れるほど真剣な顔をしたエッシがこっちに身を乗り出してくる。
「アレインに会ったのか」
「はい」
「その様子だと1回だけじゃねぇな」
「…はい」
 事実は事実だ。 肯定し続けていると右側に座っているハミルが肩を竦める。
「あんた驚いたろ? 全くの別人でさ」
 “別人”とはっきり言う彼の言葉を聞いて、向かい側にいるエッシと左側にいるロイドの2人に視線を廻らせれば、こっちの答えがわかったような瞳で……。 おれは3人の前でゆっくりと頷いた。
「あの子はな、1日経つと記憶がどっかいっちまうんだよ」
 姿に見合わず、静かに語り出したエッシに目を見開いた。
「両親がいるうちはよかった。もちろん苦労してたけどな、2人の努力のおかげでアレインという同じ人格の人間としてなんとか存在していられた」
 1日で記憶が無くなる。 それは……苦労というひと言では言い表せないくらい大変なことだろう。
 毎日毎日、何もかも忘れてしまう娘を育て続けて来た親御さんの努力は本当に凄いものだったはずだ。
「けどな。5年前、両親が揃って事故で亡くなっちまってからはそうもいかなくなった。アレインという人間がどんな性格でどういう生活をしてたのか。それを逐一教えてやれるやつがいなくなっちまったからな」
 守られて生きて来たのに、唐突にひとり残された彼女を思うと…まだ昨日会ったばかりだっていうのに胸が苦しくなった。
 それに、アレインの中には肉親を失った悲しみすら残らないんだ。 なんて喜ばしいことだって言う人間もいるかもしれないけど…人には絶対に忘れたくない記憶だってあるだろ? 大切な人の死であれば、尚更だ。 忘れたい一瞬があったとしても、覚えていることで後々自分の心の支えになることがたくさんある。
 けれど、1日経てば彼女の中から両親は跡形もなく消えていなくなり、たったひとり、誰に頼ることもできずに世間に放り出される。 それがどれだけ不安なことか、スランプになったという小さなことでもこうやって周囲に助けられてるおれには、全く想像できなかった。
「……幸いなのは、生活に必要な一般的な知識だけはなくならないってことだねぇ」
「なくなるのは、自分や他人…人と関わった出来事だけみたいなんだー」
 記憶がなくなっても生活するには困らない。 それを聞いて少しだけ安心したが、ロイドの言葉にゾクリと背筋に悪寒が走る。
「生きて来た思い出だけ無くなる…ってことですか」
「兄ちゃんうめぇな! そうそう、そういうこった」
「だからなー、おれたちと話しても、次の日にはなーんも覚えちゃいないんだよー」
 頷き合う3人を前にしながら、おれの頭の中には暗闇の中たったひとりで立ちつくすアレインの姿があった。

 人を形作るのは、周囲にいる人間だ。 彼らとの関わりによって、その人がどんな人間になるかが決まる。
 子が親に似るのも。 親だけでなく、他人に憧れるのも。 嫌いな人間を反面教師にするのも。
 全部が人と関わらなければ生まれない。

 その思い出がないということは。 アレインは、生まれたての赤ん坊のようなもののはずだ。

 それなのに、日によって全く別人とはいえ、赤ん坊ではないちゃんとした“人”である彼女は一体、何者なのか。

 それが気になって気になってたまらなくて。 おかげで、その日は悪夢に悩まされることもなく。 夢の中でも彼女のことばかり考えていた。




 あの3人に聞いた話だと、両親が亡くなってすぐは…ひどいものだったという。
 忘れていく思い出を残しておくために、毎日日記を書いていた(書かせていた?)ようで、それによって親の死を知っても当人たちに関する記憶はない。 それでも彼らが守ってくれていたアレインという存在を維持するために、毎日、過去の記録を漁っては自分を作り上げた。
 しかし、それがちゃんと“自分”であると確かめる術は彼女にはなく。
不安から泣いて叫んで、半狂乱状態になることもしばしば。
 町の人の多くは関わりあいになりたくないと避ける者も多かったが、そんな人ばかりじゃなく。 心配してやってきたはいいが、家の中に入るに入れずに玄関ドアの前で悲痛な叫び声を聞いた人もいたそうだ。

 そんな彼女が変わったのは、両親の死から丁度1年経った日からだった。

 何があったかはわからない。 けれども、家に閉じこもりっぱなしだったアレインが町に出て来るようになった。
 その彼女は、今までの彼女ではなかったため町の人は戸惑ったそうだが、それを気にする素振りは見せず。
 買い物をしにきたり。 農作業の手伝いをしたり。 かと思えば家に閉じこもったまま出てこなかったり。
 町の広場で歌を歌ったり。 その場で描いた絵を売ってみたり。
 見た目は紛れもなくアレインなのに、1日だって同じ彼女を見た人はいなかった。

 そんな生活が4年だ。
 アレインを知っている町の人たちには、いつでも初対面の人間として彼女に接するのはとても難しかった。
 元々避けていた人が、更に変な女になったと言って近づかなくなるのは当たり前なんだろうけど、関わることを選んでくれた人でも、ぶ厚い壁を感じる余所余所しい対応しかできないようだった。
 それは、両親が守っていたころの彼女を知っているからこそ。 日々の彼女の変化について行くことがでない、戸惑いが生んだものだった。
 ロイド、エッシ、ハミルの3人は後者で。 町に来る彼女を避けるようなことはなかったが、1日しか記憶のないアレインをパン屋に鍛冶屋、古道具屋という自身の店で雇うことはできず。 あの子のために何もしてやれないという苦い気持ちを抱えながらも、彼女が毎日元気に生きているのを、側で見ることの叶わない両親の代わりにできる限り見守ってやりたいと思っているんだそうだ。

 おれは……彼らとは違う。

 まだたったの2回しか会っていない彼女を見守りたいと思っているわけじゃない。 特異なハンデを持つアレインが心配ではあるけど、おれの興味を引いたのは……思い出がなくても“人”でいられるところなんだ。
 その謎がどうしても知りたくて、目覚めたおれは昨日を同じようにテイルを入れた籠を持って彼女の家の前にやってきた。
「? お兄ちゃん、だぁれ?」
 ドアから顔を覗かせたアレインは、姿よりも幼く見える純粋な笑顔でおれを見上げて来た。
 白い足を惜しげもなく見せるショートパンツにフリルのついた花柄のロングシャツを着た彼女は金髪を左右の高い位置で結んでいて、一般的にツインテールと言われるその髪型も幼く見せる要因のひとつかもしれなかった。
 昨日とも、その前の日とも違う。 子どものような彼女を目の前に少し戸惑ったおれだったが、知りたいことを知るためにもここでぎこちなさを出したら意味がない。
 下手だ下手だとラースにけなされてきたとはいえ、一応、演技をかじった人間だ。 アレインが少女であるなら、それに合わせて“少年”は無理でも“お兄ちゃん”を演じるしかない。
「おれは…カロン。実はこの町に来たばっかりでさ、遊び相手がいないんだ。よかったら一緒に遊んでくれない?」
「いーよ! アレインもお友だち欲しかったの!」
 にこり、と警戒心の欠片もない笑顔で喜んだその顔にホッとしつつ。 おれは言葉通りアレインの遊び相手としてその日を過ごすことになった。

 子どもらしい遊びと言えば…なんだろうな。 鬼ごっことかかくれんぼ、女の子ならままごととか?
 おれの中には普通に浮かんでくる遊びの数々だけど、アレインにその知識はないみたいだった。 よくよく考えれば、どれも人と関わらなければ遊べないものばかり。
 やり方を教えながら遊ぶものだから、彼女の尊敬を集めるのに時間はかからず、昼食を一緒に食べないかと誘われた。
 小さい子どもに作らせるのはどうかと思ったけど、任せてと得意満面に言う姿におれは大人しく待つことにした。
 作りはじめてみればこっちの心配は杞憂に終わり、とても子どもとは思えない手つきで手際よく料理が出来あがり、30分もしないうちにおれの目の前には香草の香り豊かなトマトソースパスタが置かれていた。
「すっごいおいしいよ」
「ほんと? よかったぁ! アレイン、このパスタ大好きなの」
 お世辞ではなく正直に伝えれば本当に嬉しそうにそう言って、大好きというそのパスタをフォークに巻いては口に運んでいた。
 食べ終えた後、リビングでテイルと一緒に遊んでいたアレインだったが、いつの間にかうとうとしはじめソファーの上でうたた寝をはじめてしまった。
 小さい子どもはよく昼寝をするもんだって知ってるが…精神的に子どもな彼女にも当てはまるんだろうか。 テイルを抱えたまま深い眠りに入ってしまった彼女を横目に、おれは家の中を見て回らせてもらうことにした。
 家主が寝ている隙に泥棒のような真似をしていいものか…と思わないでもなかったけど、それよりも、彼女について知りたいと言う気持ちの方が遥かに強いんだ。 ごめん、と心の中で謝りながらおれはリビングを後にした。

 リビングを出たところは玄関ホール。 左手のドアが玄関で。 そして、右手のドアの向こうはさっき昼食を食べたキッチンとダイニングがある。
 まだ見たことのない正面に並んだ2つのドアを開ければ、そこはトイレと浴室。 おれの家も玄関横にあるので予想はついたものの、一応確認だけしたおれは、2階へ続く階段へと歩を進めた。
 1階は日々掃除され整えられた清潔な空間だったが、目の前に広がる光景は一転。 壁は黒い模様に埋め尽くされ、床は様々な洋服が散らばるだけじゃなく……ところどころに積み上げられた本が目についた。
 左手にある部屋に入ろうとして、おれはギョッとした。  なぜかと言えば。 模様だと思っていた壁の黒色が……全て文字だとわかったからだった。
 ただ、1度書かれたものの上に2度3度と別の文字が乗せられていたから、何が書いてあるのかはまでは読むことができなかった。
 一気に心拍数の上がった自分の鼓動を感じながら、入ろうとしていた部屋の扉を開ける。 そこは1階にあったものの倍はある浴室で、統一性のない服が所狭しと干してある様子だけが異様だった。
 浴室の戸を閉めて開け放たれていた背後の部屋を覗くと、そこは廊下と同じく様々な服と本が散らばった部屋だった。 足を踏み入れるような隙間もないくらいの様子に、さすがに服を踏んでまで奥に入ることは躊躇われたおれは、先に残りの部屋を確認することにした。
 階段を上がって真正面のドアは納戸のようで、そこには散らかってはいないものの、ぎっしりと洋服が掛けられていた。 やはりファッションに統一性は見られず、色も様々。 同じようなサイズしかないとはいえ、洋服の店が開けるのではないかと思えるほどの品ぞろえだ。
 納戸から出て右手。 階段から見ると浴室の奥にあたるドアを開け…ようとして、チラリと覗いた色に思わず手を止めた。
 今までの景色にない、鮮やかな色。
 ドクン、と再び大きな音を立てて鳴りだした胸に息も浅く…早くなる。
見ない方がいいかもしれないという思いが過ったけど、ノブを握った手は緩もうとはしなくて。 おれは目を閉じてひとつ深呼吸をした後、勢いよくそこを開けた。


 一

 面

 の

 赤


 文字で埋められた黒い壁よりも狂気を感じさせるその空間に、震えた身体を自分で抱きしめた。
 壁も窓もベッドも棚も。 鏡台に、飾られた額、写真立てなど。 存在する全てが、ペンキでもぶちまけたような赤色に染め上げられた部屋。
 それだけで意味もなく恐怖を感じるのに、赤いダブルベッドの上にある赤い布団が……ビリビリに破られていて。 そこから溢れだしたであろう羽毛すら、同じ赤色に染まっていた。
 おれは、静かに扉を閉めながら焼きついてしまったその色を視界から追い出すためにギュッと目を閉じる。 けど、視界が暗くなればますます赤色が目の裏側で増殖していくだけで、荒くなる息と共に瞼を開けて何度か首を振って追い出そうと努力した。

 ……ダブルベッドから考えると、この部屋は両親のものだったのだろう。 きっと、2人が生きていたころはこんな場所ではなかったはず。 1階のように綺麗に掃除され、過ごしやすい部屋だったはずなんだ。
 過去の面影すら読みとれないほどの変わり様は……両親が亡くなった後、起こったことだろう。
 ひとりきりになってしまったアレインが過ごした5年がどんなものだったのか。 おれには想像することしかできないけど、想像だけで身体中に重い石を詰め込まれたような気分になるくらい……辛いものだったのだと思えた。
 はぁ、と深いため息を吐いたおれは、最後に残った部屋のドアに手をかけた。

 また、さっきみたいだったらどうしようか……。

 気は重かったが、まだアレインが“人”でいられる理由はわかっていない。
おれはそれを求めて、ゴクリと唾を飲み込みながらゆっくりと扉を開けた。
 そこは……。

「……白い……」

 全てが白色の世界、だった。

「…あれは……?」
 ベッドの横に白じゃない、茶色の本を見つけて手に取る。
横から覗けば変色した紙が見え、それなりに時間を経た物だってことがわかった。
 そして、もう1つ。 背表紙の太さに反して明らかに足りない紙の量。 どうも、前半分が無理矢理破られたみたいだった。
 おれは、迷いながらも自身の好奇心を抑えられず、表紙をゆっくりとめくって中に目をやった。

「………これ、だ……」

 現れた可愛らしい文字が綴る中身は、おれが知りたかったことを教えてくれていた。


   ***


 あなたの名前はアレイン。 何も覚えていなくても、誰も覚えていなくても。 目覚めたあなたがアレインなの。


 “わたし”は大好きな食べ物はオムレツで、嫌いなのはトマト。 でも、ケチャップは食べられるんだって。
 それでね、本を読むのが大好きなんだって。 とくに物語!  読んでいると自分が本の中に入っちゃったみたいで楽しいの。

 ……けどそれが本当なのかわたしにはわからない。 だって、わたしは覚えてないんですもの。

 『お母さん』が一生懸命話してくれるから、そんな“わたし”でいようと思った。 『お父さん』が教えてくれるから、ずっとずっと“わたし”でいなきゃと思った。
 でも、『お父さん』も『お母さん』もどこにもいない。
 わたしがちゃんと“わたし”でいるって、教えてくれる人はもう…いないんだって、“わたし”が言ってた。
 だったらもう、いいじゃない。 “わたし”でいようとしなくても。
 みんなみんな、“わたし”になろうとして苦しんでるもん。 わたしはそんな“わたし”を知りたくないもん。

 だから決めたの。  “わたし”を捨てる。

 “わたし”にこだわっていつまでも“わたし”でいようとすると、わたしはわたしじゃなくなっちゃう。
 本当の“わたし”がわからないわたしが“わたし”になろうとしたって、それは絶対に偽物にしかなれない。 偽物だったら“わたし”になったって意味がないでしょ。 『みんな』の困った顔を見るのは辛いって“わたし”も言ってたもん。

 だから、ね。
 過去はわたしが捨てるから。 あなたは未来を歩いていって。


 あなたの名前はアレイン。 何も覚えていなくても、誰も覚えていなくても。 目覚めたあなたがアレインなの。

 あなたが好きな食べ物は?
 あなたが好きなことは?
 どんな髪型や服装が好き?

 全部、全部。 あなたが決めて。

 今のあなたが、本物のアレインなんだから。


   ***


 多分、日記だったはずのものを枕元に置き直し部屋を出たおれは、転々と置かれた本を数冊手に取った。 それらはみんな、昔、自分も読んだことがある様々な物語の本だった。
「わかったぞ……」
 ふと、気がついた。
 アレインは、これらの物語に出てくる登場人物を元に自分を形作っているんだ。
 自分の中に存在しない“思い出”をここで得て、自分の物とする。 そして1日1日別の人間となって暮らしているんだ。
 ようやく知ることのできたその答えに、胸が熱くなると同時に苦しくて……辛くてたまらなくなった。

 おれの頭の中にはやっぱり、暗闇の中たったひとりで立ちつくす彼女の姿があったから……。




 その日、小さなアレインと別れたおれは1本のペンを買った。 悪夢に悩まされるほど浮かんでこなかった文字が、自分の中で溢れんばかりになっていたからだ。
 本当はラースに取り上げられたものがよかったけど、そのために長い道のりを馬車で帰るのももどかしい。 とにかく、新たにおれの中に生まれ始めた物語を早く紙の上に吐き出してやりたかった。
 1日。
 2日。
 3日。
 寝る間も惜しんで書き続けた4日目の朝。

『Tale of a tale』

 出来上がった台本を手に取り、パラパラとページをめくった。 現実じゃないその嘘の世界には、4日前からずっとおれの心の中に住んで離れない人に良く似た人物が生きていた。

 ヒロインに恋する男の…こんな台詞がある。


   ***


 君が君であるのなら。 おれはいつでも君のそばにいたい。 君の1番の存在でいたいんだ。
 例え、君の記憶に残らなくても。 おれの目の前にいる君が、同じ君でなくても。
 全ての君の中にいられれば、それでいい。
 そのためならおれは“嘘”の自分にだってなる。 君に好かれるためなら、なんだってする。

 それくらい、君のことが好きなんだ。
 だから……いつまでもずっと。 君の隣にいさせてほしい!


   ***


 これは、紛れもなくおれ自身の言葉。 書いていて気づいた自分の気持ち……だ。

 大きな封筒の中に書き上げた台本の束と1通の手紙を入れて、封をする。
 宛て先は、偉大なる大先輩であり劇団の団長 ―― ラース。
 執筆に熱中するあまり、実際に悩んだ時間はほんのわずかだったけど迷いがなかったわけじゃない。 自分の力が活かせる場所であり、仲間たちに囲まれた夢の世界だ。
 あそこにいたほうが幸せかもしれない、と考えた。

 けれど。 それを捨ててでも生きたい場所を見つけてしまったんだ。


 ……なぁ、ラース。 『“本物”を伝えなきゃ意味がない』って、お前、言ったよな。
 おれ、演技は苦手だけどさ。 お前が認めてくれるような最高の“役者”を目指すよ。
 “嘘”だけど“嘘”じゃない。 いつでも、たったひとりの人間の前では“本物”の自分でいるために。




 赤土で焼かれた瓦屋根の家が転々とする田舎町。
 町外れの家の前で、おれは目の前の扉が開かれるのを待っていた。
 空はカラッと晴れ渡り、彼女と初めて出会った日を思い起こさせるけど、おれの気持ちはその日とは全く違った。
 ため息なんて出ようがない。 今日はどうやって過ごそうかって考えて、毎日ワクワクしているんだからな。

 さぁ、今日も始まる。 君のためだけの舞台の幕が開く。

 君が生きている限り。 おれはいつまでもその隣に立ち続けるから。
 今日もまた、君のそばで。 その翡翠色の瞳におれを映して。

- end -

2013-11-23

『ポケクリ』のサークルで始まった合作です。
キャラ作りから始まり、あらすじまで。メンバーの方と協力して決め、それを文章化させていただきました。

わかりにくい部分もあるかなと思っていますが、それはもう、読んでくださった方の感じるままに…と思っております。
皆さんの心に何かが残っていれば嬉しいです。


屑深星夜 2011.8.8完成