間(はざま)






 『間』 ―― ハザマ

 そこは、死したモノが必ず通らねばならない場所。


 人のように命ある者はもちろん。
 植物のように一見、命のないように見えるもの。
 命などない、物と呼ばれるもの。
 その存在を信じられていない、お化けや妖怪と呼ばれる類のもの。


 …それら全てが人の形をとり、“審判”までの一時を過ごす場所。





 瓦屋根の平屋が続く古びた町並み。
続く白壁が途切れた細い路地の入り口に、1つ影があった。
 土に汚れてはいるが、壁に溶け込みそうな白い服に身を包んでいるのは赤銅色の髪をした男だ。
クルクルとカーブを描くそれは、象牙色の肌をくすぐっている。

 グゥゥゥゥ…

 地面に腰を下ろしたままの男は、己から聞こえた音に首を傾げる。
そして、音とともに振動した腹にそっと手を添えた。

 あぁ、お腹が空いているのだ。

 それに気づいたのは一瞬後のこと。
 しかし、ここは路地の入り口。
先に見える場所も、住宅街なせいか人通りが少ない。
これでは腹を満たすことは難しいのは明白だ。
 けれども立ち上がることはせずコトンと首を反対側に傾けた男は、死んだ魚のような青緑色の瞳を瞬かせた。

 腹を満たすためには何をしたらいいのか。

 本能的で覚えていたことを実行するために、彼は薄い唇を大きく開いた。
「オギャァ〜!! オギャアァ〜〜!!!」
 その身体つきからは想像もできないような、声。
赤ん坊の泣き声が、そこから発せられている。


 『間』に来る前、男は“饕餮”と呼ばれる妖怪であった。


「……赤ちゃんの泣き声…?」
 広い道の方から鈴が転がるような可愛らしい声が聞こえて来る。
砂を踏む足音が軽いことから、子どもだと思われた。
 自分のいる路地にその気配が近づいてくるのを感じた男は、泣き真似を続けたままゆらりと立ち上がる。
その瞳にはいつのまにか光が入り、見るものを震え上がらせる殺気が篭っていた。

 少女がその路地にたどり着くまで、あと一歩。

 というところで、男の周囲に変化が起こった。


 風景が溶ける ―― 否、溶けているのは己の身体。


 伸ばした手指から。
踏み出そうと構えた足先から。
 蜃気楼のように立ち上る煙は、身体の中央から遠いほど激しく。
解けた部分から周囲の空気に溶けて消えていく。
 己の指がすっかり無くなるまでの数瞬。
彼の青銅色の瞳からはいつの間にか光が失せ、その不思議な現象を受け入れるかのように瞼が閉じられた。



「やめてっ!」
 目の前で声が聞こえた、と思った瞬間、男の下半身に巻きつく温かいもの。
 暗闇で覆われた視界に再び光を映したとき、そこに広がっていたのは黒にも見える深い紫色だった。
 なくなったはずの指をそこに伸ばせば、サラリとした感触。
糸のように細い細いそれは……少女の髪であった。
 パッと顔を上げた彼女は炎のような朱色の瞳で男を見ると、ほっと息を吐く。

 グゥゥゥゥ…

 思い出したように空腹を訴えた音を耳元で聞いた少女は、くすりと笑みを零すと男からピョンと離れた。
「あなた、お腹空いてるの?」
 首を傾げて見上げてくる様は子どもそのもの。
しかし、頬に乗る笑みは艶やかで…身を包む黒い服がよく似合っていた。
 腹が減っているのは事実。
男は本能のままにコクリと頷く。
「じゃ、あたしの家にいらっしゃい。何か作ってあげるわ」
 そのまま、クルリと背中を向けて歩き出した少女。
彼はほんの少し躊躇いを見せたが、その場にいても空腹が満たされるわけでもない。
ゆえに、大人しくその後を追ったのだった。





 町外れの一角に、同じような瓦屋根の家がポツンと建っていた。
入口の横では柳の枝が垂れ下がっており、木陰が緑の香りのする涼しい風を運んでくる。
「ただいま」
 少女がキィ…と小さな音を立てて出入口となっている木戸を開ける。
と、その向こうで待ち構えていたらしい人物がバッと両腕を広げ、顔を輝かせた。
「ラージャ! 待っていたよ! ぼくの愛しい妹!!」
 “妹”と呼ばずともわかるほど少女 ―― ラージャに良く似ている。
 抜けるように白い頬と炎のように燃える瞳。
サラリとした紫黒の髪は、後ろで高く結い上げている彼女とは違ってみつ編みにされており、彼の動きに合わせて背中で揺れていた。
「あー…はいはい」
 一瞬げんなりとしたラージャであったが、そう言って小さくため息を吐くと目の前に立ちはだかる兄を押しのけようとする。
「ちょっと邪魔だからどいてくれる? エン兄」
「そんな…っ!! ただいまの挨拶もないのかい? 相変わらず冷たいんだからなぁ! ぼくの大事な妹は」
 ひょい、と小さな身体を抱え上げた男の眉はせっかくの美形を台無しにするほど垂れ下がっている。
細いながらも右腕1本でラージャの膝を抱え込みその腕に座らせるようにしたエンは、少し高いくらいの位置に来た妹の頬に自分のそれを擦り寄せた。
「ちょっと…やめ……」
「あぁ〜…ラージャのほっぺは今日もプニプニのツルツルだねぇ! もう食べちゃいたいくらいだよ!!」
「わかったからやめてよ! あたし…」
「これからお仕事だし、お兄ちゃんと一緒にお風呂入ってキレイにしようか」
「入らないわよ! あたし今から……」
「あ、お腹が空いてるのかい? なら、ラージャの好きな桃饅作ってあげようか」
「エン兄に料理は無理でしょ!? それに、お腹空いてるのはあたしじゃなくて……」
「それとも一緒にお昼寝しようか! ラージャが眠るまで子守唄歌ってあげるよ?」
「だ…から……っ!!」
「あぁもうっ! 愛してるよぼくの妹!! 神様なんか大嫌いだけど、ラージャと別々に“生んで”くれたことにだけは感謝……」

「話を聞けっ!! このシスコンっ!!!!!」

 家中に響いたその叫びのおかげで、陶酔しきったエンの声が一瞬止まった。
が、図体に似合わずプクリと頬を膨らませた彼はすぐに口を開く。
「嫌だね。こうでもしなきゃ触らせてもくれないじゃないか」
「ほっといたらずっと離さないでしょ!?」
「当たり前じゃないか!! ぼくらは2人でひとりなんだよ? 側にいるのが普通…」
「じゃない!」
 バチン、と己の頬に唇を寄せて来る兄の顔を手の平で叩きながら、ラージャは形のいい眉を吊り上げる。
「それが普通ならわざわざ別々になんて生まれてくるわけないじゃない!?」
「それはぼくがラージャを愛するために…に決まってるじゃないか! それ以外の何があるって!!」
「もっと別の役目があるからでしょ!!!」
「いいや!! 可愛いラージャをこれでもかって愛でるために決まってるっ!!!!!」
 これ以上は聞くものか、と言うように今まで以上に強い力で少女を抱きしめた男は、小さな頭を己の肩口に押さえつけ身動き取れないようにしてしまう。
体格差だけでなく力の差もあるせいで、精一杯の力で相手の身体を押し返してもびくともしない。
 これが今日だけであれば、ため息を吐いてされるがままになっていたかもしれない。
 しかし、毎日と言うほど同じようなやり取りが繰り返されていては、ラージャの額に血管が浮くのも当たり前で。
プチンッという小さな音を立ててそれが切れても、おかしくはなかった。


「こっの……離せ!! 変態っ!!!」


「ガ――――――ン!!!! ら、ラージャ……い、いい、今、何て?」


 脳天に鐘でも落とされたように大きなショックを受けたエンは、その顔をの色を無くさせる。
 衝撃の言葉は確実に耳に届いていることはその様子から丸わかりなのだが、どうしても確認せずにはいられないらしい。
それは彼にとって少女が可愛くて愛しい存在であるから……なのだが、その行為が傷を更に深くしようとしていることには気づいていない。
「下ろせ、変態」
「うぅ…っう、嘘だよね! ラージャはぼくの天使だもん!!!」
「下ろしてくれるまで何回だって言ってあげるわよ? この変態」
「いぃーやぁーだぁーっ!!! こ、これは幻聴…」
「変態」
 三度。
傷を抉られて、金赤の瞳に今にも零れ落ちそうなほど涙を溜めたエンは、抱えていたラージャの身体を両手で持つと己から引き剥がす。
「あぁぁぁぁぁ!!! 下ろす! 下ろすから!! 言わないで!! お兄ちゃんって呼んで」
 しかし、僅かに小首を傾げて宙ぶらりん状態の少女を見上げる仕草は全く懲りていないように見え……。


「………もう1回呼ばれたいみたいね?」


「…うぅぅ〜……わかったよぉ……」
 低い低いドスの効いた声に肩を落としたエンは、ラージャの小さな身体をようやく地面に下ろしたのだった。


 ふぅっとため息を吐いたラージャは、結い上げた髪を揺らしながら玄関を振り返る。
「入って」
 開いた木戸ところで茫然と立ちつくしたままだった男は、また大きな音を立てて己の腹が鳴るのを聞いていた。
無表情のまま震えた場所を大きな手で押さえる彼に、少女はふふっと微かな音を立てて笑う。
「ごめんね、バカ兄のせいで待たせちゃって。すぐに作るから座ってて」
 促された場所は、すぐそこに見える食卓…と思しき場所。
クルクルとした巻き毛頭を上下させた青年は、勧められるままに椅子に座った。
「…結局それ、拾って来たのかい?」
「えぇ」
 冷たさを纏った炎色の瞳は自分より体格の良い男を射抜く。
それは、先程までラージャとじゃれ合っていたエンとは別の雰囲気を纏っており、向けられた男は首を傾げながらも背筋にゾクリとした感覚を覚えていた。
 与えた本人は、ひょいと肩を竦めて苦笑する。
「拾い癖は相変わらずだねぇ。ラージャらしいと言えばラージャらしいんだけど……こいつは捨ててきた方がいい」
「どうして?」


「いくら食べさせて腹を満たしてやっても飢えはなくならない。空っぽなのはそこじゃないんだからね」


 彼の言葉通り。
 ラージャが用意した山盛りの料理をペロリと平らげても、青年の腹の音は止まらなかった。
それに呆れながらも、彼の空腹を満たすために再び料理をしに戻ろうとしたそのとき。

 何か、食べたい。

 ただ本能に目を光らせた男の長い手が、少女の首筋に伸びた。
「―― その手は何だ?」
 指先が触れる前に彼の手首を掴んだのはエンだった。
 青年よりもひと回りほど小さな身体に線の細い容姿であるにもかかわらず、その力は計りしれず。
それ以上伸ばすことも引っ込めることもできないまま、痛いくらい握りしめられる。
 しかし、青年の表情は何も感じていないかのように少しも動かない。
エンにとってはそれすら癇に障るようで、大きな舌打ちが聞えたと同時に盛大に手を払われた。
「この…獣がっ!! せっかくラージャが情けをかけてやってるというのに手をかけようだなんて! 1億年早いんだよっ!!!!」
 白磁色の手の平と拳が胸の前で合わせられ、微かに開いた赤い唇が何かを唱えはじめる。
と、青年は感じたことのある感覚に包まれた。

 ゆらり、と己から立ち上る煙。
周囲の風景が溶けていくように……己と言う存在が消えて行く、現象。

 どうやらそれはエンによって引き起こされているらしい、とわかっていても男に何かしようという気持ちは起きず。
グゥゥ…と鳴った腹を濁った青緑色の瞳で見つめたまま、それを静かに受け入れていた。
「エン兄、止めて!!」
 その命をまたも繋いだのはラージャであった。
彼女は、ピョンと兄に飛びついて手を離させると両手を広げでその小さな背に男を庇う。
 しかし兄の冷ややかな雰囲気はまるで変わらず、鋭い視線がラージャを射る。
「…ぼくがやらなくても他人の命を脅かす限りこいつに生きる価値はない。死して当然! 次の生を送る資格はない!!!」
 エンの言う通り、この『間』では、人の形した者同士が傷つけたり殺し合ったりすることはできない。
既に死したる存在であるということもあるが、そうした行動は“審判”を受けるまでもないと判断されるからだ。

 それは ―― 完全なる死を与えられるということ。
魂そのものから消滅し、生まれ変わるという希望すら消えるのだ。


 1つの生を終えたモノがここでひと時過ごすのは、次の生を生きるに相応しいかどうか見極めるため。
時が来た者から『間』の支配者である『閻魔大王』の“審判”を受け、今後の行く先を決められる。

 善き魂は天へと昇り、次の世へ生まれ変わるのを待つ。
 悪しき魂は地へと落ち、再びの“審判”まで過酷な苦行をさせられる。

 どちらであっても生へと繋がる“審判”だが、膨大な数の魂全てを…となると時間も労力もかかる。
ゆえに、魂をふるいにかける場が作られた。

 それが ―― 『間』だ。
 
 人として生活することで、“審判”のための材料を増やすことはもちろん。
“審判”するに値しない者をその場で排除することができる。

 おかげで『閻魔大王』の仕事は減ったが……それに納得できない“王”がいた。


「それは彼のせいじゃないわっ!!」
 ラージャは金赤の瞳を燃え上がらせて叫ぶ。
「彼は彼なりに生きていただけ。そうすることしか知らなかったんだもの! 終わった人生のせいで無限にあるはずの未来が狭まってしまうなんて、おかしいわよ!!!」
「おかしくても許さない!! 2度もラージャを食べようとするなんてっ!!!!!」
 パン、と大きな音を立てて再び合わさった手の平と拳。
とたんに男の周りがまた煙に覆われてシュルシュルと溶けていく。

 彼を助けるにはどうしたらいいか。

 短い時間に少女が弾き出したその方法は…

 

「お兄ちゃん!!!」



…ただ、そう呼ぶだけの簡単なものだった。
しかし、その威力は絶大で……。
「!! ら、ラージャ…? いま、お、にいちゃん…って……」
 合わせていた手を解き、感動にうち震えるエンの瞳はキラキラとした輝きを内包している。
それに心の中で笑んだラージャは両手を胸の前で組んでお願いのポーズを取る。
「お兄ちゃん! ラージャがちゃんとこの子の面倒見るから……お願い! “審判”までちゃんと待って?」


「……うんっ! わかった!!!」


 子どものように大きく頷く男の頬は紅潮し、清々しいほどの笑みを浮かべていた。
「あー…もう、バカ兄が単純でよかったわ」
「え? 何か言ったかい? ラージャ」
「ううん? 何でもないよ? お兄ちゃん」
「そうかいそうかい」
 何度も頭の中で「お兄ちゃん」という言葉を繰り返しながら幸せに浸っているエン。
その背後でホッと息を吐いたラージャは、壁にかかった時計を見てわざとらしく声を上げる。
「あ! ほら、お兄ちゃんはお仕事でしょ!」
「そ…うだけど、ぼくが仕事ならラージャだって…」
 仕事だろう…とブツブツ言う兄の腰をグイグイ押した少女は、そこでニコリと微笑んでやる。


「いってらっしゃい!」


「い…いってきまぁす!!」


 どこか矛盾した想いを抱えながらも、幸せいっぱいのエンは機嫌よく家を出て行ったのだった。





 嵐が去ったような静けさの中。
キュルルル…と小さな音を立て続けるのは“饕餮”であった男の腹。
 ラージャは、未だにポツンと椅子に座ったままだった彼の横に立つと白い服の袖を引っ張る。
「…あなた、名前は?」
「……?」
「名前よ名前。ないの?」
 名前、が何かすらわからない素振りを見せた青年は、少女の問いにぎこちなく頷く。
 元は妖怪だったのだ。
名前が無くともおかしくはない、と思ったラージャは口元に手を当てて少し考えた後、青銅色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「クルーっていう名前、どうかしら? 髪の毛クルクルだし」
「く、るう?」
「そう、クルーよ」
「クルー!」
 はじめて聞いた男の声は、身体の大きさにしては高く澄んでおり、子どものようなあどけなさを含んでいた。
嬉しそうに何度も名を呟く様子に、少女はくすりと笑う。
「気に入った?」
 元気よく頷く彼の顔は無表情に近かったが、口元が僅かに弧を描いているようで。
濁っていた瞳にも純粋な光が宿っているように見えた。
「エン兄の言う通り、心が空っぽじゃどれだけ食べてもお腹いっぱいにならないわけよね」
 言いながら腰に手を当てたラージャは、ふぅっとため息を吐いた。
 さっきまであれだけ鳴っていたはずの彼の腹の音は、今は聞こえない。
それはきっと、己が与えた名前のせいだろう…とラージャは理解していた。

 心を満たせば、彼も変わって行くだろう。
そうすれば、彼の未来はきっと明るいものになるはず。

 ラージャはクルーの象牙色の手をギュッと握る。
「あたしがあなたを生かしてみせるわ。だから“その時”が来るまでここにいらっしゃい」
 少女であるにも関わらず、母親のように慈愛に満ちた笑みは彼にその手を握り返させる。


「拾ったものは最後まで責任もって面倒みないとね?」


 しかし、そう呟いて肩を竦めた姿は……やはり、どこからどう見ても幼い子どもにしか見えなかった。





     fin







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