このお話の、坊ちゃん(朱里=マクドール)は“女の子”です。
そんな設定許せない! って方は回れ右してください。
この時だけ、今だけ過ごせる時間。
優しいあなたと、過ごせる時間。
それは、…それは甘いひととき。
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その日、朱俚は気持ち良く目覚めた。
薄紗のカーテンから柔らかな朝日が室内に差し込んでいる。
温かな室内へ、微かに開けられた窓から入ってくる清浄な空気が朱俚の意識を覚醒へと促した。
「…ん……ぅ…」
まどろみながら、ゆっくりと朱俚が目を開けると其処には、広い背中があった。
皺ひとつ無く整えられた装いに、真っ直ぐで綺麗な黒髪が零れる。
朱俚の覚醒に気付いてか、その背はゆっくりと面を向けた。
「……おはようございます、朱俚」
柔和な笑みがシュウの顔に浮かんで、朱俚へ向けられた。
「おはよ…う」
朱俚は、ぼんやりとした意識でシュウに応えた。すると、シュウの笑みが若干…複雑なものに変化したから、朱俚は不思議に思った。
「……どうかした?」
朱俚はそのまま、疑問をシュウに返す。
シュウはその様子に、こめかみに指を寄せて小さな溜め息をついた。
何かを振り払うように、更に一息つくと少年のように朗らかに笑った。
「何でもありませんよ。お目覚めがてら……お茶でもいかがですか?」
よく見ればシュウの淹れた紅茶が、すでにテーブルの上で香りと湯気をたてながら、朱俚を待っていた。
「ありがとう」
朱俚はシュウの差し出した手を取り、温かなベッドからするりと抜け出した。
いつもなら、ベッドの温もりに散々に後ろ髪を引かれながら起きる辛さも…朱俚は微塵も感じなかった。
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「今日の予定は…?」
朱俚は身体を温める紅茶の香りを味わいながら、シュウに尋ねた。
「昼まで閣議、そのあとトランとの関税について大使殿と会談を兼ねた昼食会。午後からは………」
シュウの低い声はつらつらと、シュウの今日の予定を朱俚に知らしめた。
……国主たるシュウには、個人の時間などほとんど無い。
安定している感じがあるが、国内の不安材料を少しでも減らすべく奔走し……対外的な交渉も行っていかなければ、他国に付け入れられる。
それほどまでに、まだデュナン国は周りの国から見れば幼い国なのだから。
すべての国がこの国に友好的というわけではないのだから。
「……今日も頑張ってね。……私も頑張るから」
本当は、ずっと今のような穏やかな時間が過ぎていけばいいと朱俚は思う。
お互い忙しくて、夜遅くと早朝にほんの少し顔を合わせるだけ。
この小さな憩いの時間。
この小さな時間を守る為に、かつての戦争で喪われた数多の命と想いに応える為に。
いつかまた起きてしまうかも知れない戦乱を少しでも遅く、平和な時間が少しでも長く続くように……シュウは働いているのだから。
寂しいなんて思ってはいけない。
もっと一緒に居たいなんて。
それは贅沢な思い。
だから、いつも朱俚はシュウに微笑むのだ。
国主として振り返ることもなく、朱俚の部屋を出て行くシュウ。
その背に触れて引き止めたいと、伸ばした腕をそっと押し戻して。
その背中に……。
ぱたん。
小さく閉まる扉の音。
それが…朱俚にはとてつもなく、重く感じられた。
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「―――僕も、行くかな」
幾分乱暴に顔を洗い、朱俚はシャツに腕を通す。
寝巻きから、糊の利いた上着とズボンへ。
宰相補佐として、朱俚はクラウスの仕事を普段手伝っている。
表立って何かするような立場を朱俚は望まなかったから、朱俚は家名を負わず……『シュリ』としてその要職を担っていた。
もちろん、城内にいるものは当然にして『シュリ』のことは、朱俚=マクドールであると知れていたが。
一般的に知られている性別が異なることと、名の違いに……まさかとは思いつつ知らないものもいたが…。
公の場では、仕事の上では……ただの『シュリ』として、何も負う所無く、その才を発揮していた。
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「おはようございます」
朱俚は上司である、クラウスの執務室を訪ねて、挨拶をした。
「おはようございます、朱俚さま」
クラウスも朱俚に返す。
「クラウスさん……仕事中は『朱俚さま』って言うのやめてくれませんか?」
朱俚はいつものように、困った顔をしてクラウスに言った。
会うたびに…朱俚が言ってもクラウスはやめようとしない。
「はい、わかりました。――シュリ、おはようございます」
笑って、悪びれも無くクラウスは言い直した。
それを見て朱俚も笑う。
「クラウスさん、今日も頑張りましょう!」
こうして、『シュリ』の一日が始まる。
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「クラウスさん、ここ計算違ってますよ」
朱俚は治水工事の書類に記載された諸費用について言及する。
「何処ですか?
――あぁ、これは前年度の繰越分があって、それが計上されているはずで…」
「了解しました。ここに注釈を足してしておけばいいですか?」
「そうですね……。あとシュリ今日、トランからの商隊が珍しいものを持ってきてくださったみたいなんですが…貴女に差し上げますよ」
朱俚に指示を出しながら、ふと書類から目を上げてクラウスは告げた。
「珍しいもの……ですか? …高価なものは……」
それとなく辞退しようとしている朱俚を見越して、クラウスは笑った。
「何かと忙しいあの方に、何か差し上げたらいかがですか?
得意だとお聞きしましたが……よく作られていたんでしょう?」
砂糖と……トランで精製された小麦と、ナッツ。
商隊から得たそれをクラウスは朱俚に与えようとしていた。
朱俚の脳裏に懐かしい光景が目に浮かぶ。
戻りたいとすら思ってしまう、あの光景。
「クラウスさん……ありがとう…ございます」
朱俚には、その心遣いが嬉しかった。
そして、多くを告げないその心が……朱俚のこころを慮ってのことだと知っていたから。
その優しさが……朱俚のこころに沁みる。
クラウスは穏やかに、ささやかなお礼を『要求』した。
「お礼は…… 貴女が作ったものを、少しおすそ分けしていただければ結構ですよ。 ――誰かにあげた物の残りでも結構ですから…」
ただ、貰うことを朱俚は快諾しないだろうと、そのこころの負担を軽く出来るように。
そんなクラウスの意図を感じながら、朱俚は笑った。
「……もっと恩に着せてくれてもいいんですよ?」
欲が無いですね、と笑ってみせる朱俚にクラウスは、秘め事を告げるように囁いた。
「――ちゃんと、恩を感じてもらうべき相手から……頂きますから」
悪徳商人みたい…そんな感想を漏らす朱俚と、クラウスは笑い合った。
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厨房の片隅を少し借りて、朱俚は小麦粉を篩う。
製菓は計量が決め手だが、朱俚は頓着しない。
いや昔、覚えた身体が今でもその重さを覚えている。
『ここでだな……ポイントは…』
懐かしい声が朱俚の耳に蘇る。
そうそう、と窯に朱俚は火を入れる。
「余熱が…要るんだよね。…忘れてないよ」
さくっ、さくっ。
朱俚は大き目のボウルに材料を入れて混ぜていく。
窯の近くに置いておいたバターが、室温に程良く溶けていた。
『直火にバターをかけるなよ……』
『どうして?』
『完全に溶けたバターは風味が落ちるんだよ! ……認めてないな…よし、両方で作ってみっか』
昔初めて作ったときには、バターを直火にかけてしまいテッドに怒られたっけ。
朱俚は思い出した。
実験のように溶け切ったバターとそうでないもので作ったものは香りから、その出来は一目瞭然で。
味は段違いだった。
あの時に口に広がったバターの香り。
いつも年上だと大人ぶっているようなテッドが……どうだ、と子供のように威張って見せたあの、情景が朱俚の目に浮かんた。
少し、生地を休ませている間に朱俚は小さなナイフを取り出した。
『おいおい……そんなやり方じゃ、指を剥いちまうぜ』
『そんな事無いもん…!』
『だからな……こうやってみ?』
『すごいっ! テッド…りんご剥きマシーンだっ!』
『……マシーンって…』
くるくると、いとも簡単に林檎を剥いていくテッドの手つきは綺麗で、朱俚は素直に感嘆の声を上げていた。
薄く削がれた皮を見つめながら、そんな昔の己の声に苦笑する朱俚。
林檎を食べやすい大きさに切り、型に流し入れた生地に埋めていく。
そっと、型を火を調整した窯に入れて扉を閉める。
あとは火の強さを維持するだけだ。
焼きあがるまでの時間、朱俚はナイフで乾果を削る。
じゃり、と乾果に塗[まぶ]された砂糖が音を立てる。
朱俚は色とりどりの乾果やナッツを刻み終わった頃、窯からいい香りが漂ってきた。
「…甘いね」
冷やしたボウルに泡立てたクリームを味見した朱俚は、出来上がりを眺めてひとり呟いた。
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シュウは執務室でいつものように書類と格闘していた。
朱俚も今頃……クラウスと執務に追われているだろう。
シュウの執務室に据えられた朱俚の机を見やり、シュウは思った。
その主は今此処にはいない。
国主たるシュウはあらゆるものの最終決定を下す立場にいる。
しかし、すべての案件に目を通すのでは、処理するべきものがされずに…されるまでの時間が膨大なものとなる。
ゆえに、クラウスと共に朱俚がその篩い分けを行ってくれているのだった。
そうしても尚、シュウの元に届けられる書類は尽きない。
尽きない仕事を常に処理しなければ…国は働かない。
そんな風に思いながら、シュウは黙々とペンを動かしていた。
コンコン。
小さなノックの音。
その音に、ちらりとシュウは壁掛け時計を見た。そろそろ、本日分の報告にクラウスが来る頃だ。
宰相が本日中に届けられた書類の内、優先度や緊急性の高い案件を報告に来るのが常だった。
それにしては、少し早い気がするが…。
シュウは扉に向かって声を返した。
「――入れ」
++++++++++
「―――!」
シュウの予想とは異なり、入室を許可したあとに扉を開けたのは――朱俚だった。
「朱、シュリ……クラウスは?」
朱俚はシュウの予想通りの反応にくすり、と笑った。
「『本日はご懸念となるような案件はございません』だって。……だから、それを伝えに僕が来たんだけど…」
「そうか…」
こういうときは、シュウは『シュリ』として接する。
自制しているのだ。
朱俚が、ただ一人の人間として……この国の力となってくれていることに対しての、シュウなりの気遣いと感謝でもって。
「もうひとつ伝言が――」
すっと、シュウに指し出された手紙。
『ちょっとは休んでくれないと困ります。
朱俚さまとお茶でもしてください。
お代は後で――十分頂きますから、ちゃんと味わってくださいね。
もう少し……あの方のこと気にしてあげても、誰も文句は言いませんよ?』
シュウは文面を素早く読み…折りたたんだ。
朱俚に見えないように懐に仕舞い込んだ。
「ねぇ…ちょっと付き合ってくれる?」
右手に下げた籠をシュウに掲げて、朱俚は申し訳なさそうに微笑んだ。
++++++++++
「――クラウスさんがくれたんだ」
朱俚は林檎のケーキを切り分け、取り皿に分ける。
小さな器から取り出した生クリームを皿に盛り付け、刻まれた乾果やナッツを振りかけた。
「――どうぞ」
盛り付けの終わった皿をそっと、シュウの前に差し出す。
まだ温かな生地から、微かに立ち昇る湯気。
バターの香りの強いケーキと合うように、さっぱりとした味の紅茶も、シュウの目の前に用意されていた。
かちゃり、シュウはフォークを手に取り口に運ぶ。
「おいしい…」
家庭的な懐かしい香り。
飾り気のあるものではないのに。
じんわりと沁み込んでくる甘さ。
シュウの一言に朱俚の顔がほころんだ。
花のように、ほころぶ笑顔。
陽だまりのように純粋な笑み。
「ありがとう…嬉しい…」
シュウは驚いて、朱俚に尋ねた。
「これは……あなたが?」
「そうだよ。クラウスさんが、トランの砂糖とかナッツとか沢山くれたから。
ちょっと作ってみようかなって思って」
楽しそうに朱俚は語った。
「甘いもの好きなんだけど…僕こんな、大雑把な性格でしょ?
試しても、上手く作れなくってよく失敗してたんだ。」
「失敗…ですか?」
意外そうにシュウは朱俚に返す。
「みんな、おいしいって言ってくれたけど。
やっぱりいまいちだったんだって。何かがね…」
「一応、出来るんだけどね…『足りない』って。言われちゃった。」
朱俚は懐かしそうに目を細めた。
愛しむように、『誰か』に向かって。
「誰に…?」
「僕の親友…、テッドに」
「お前は『お菓子がわかっていないっ!』とか言っちゃって……細かいこと色々言われたっけ?」
くすくすと、子供のように幸せしか知らなかった少女のように朱俚は笑った。
「これは、そんなテッドが太鼓判を押してくれたレシピだよ」
これを食べれた奴は幸せだ、と。
そう朱俚に言ってくれたテッド。
『大切な奴に作ってやれよ』
『きっと朱俚、お前の気持ちが伝わるから。』
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「これは『幸せだって思うほどおいしい』からって、言ってくれたんだ」
いつの間にか、朱俚の頬を伝わった涙。
「……泣かないでください」
シュウは困惑して言った。
「ごめん、大丈夫……ちょっと思い出しただけだから。」
悲しいだけじゃない。
懐かしい思い出も一杯あったから…平気。
今、此処に……居ることが出来るから。
いつか…此処を去っていこうと…あなたが思っていても。
私は…『いま』、此処に居られるだけで……幸せ。
「さぁ、冷めないうちに食べちゃおう?」
朱俚は涙を拭って、シュウに微笑んだ。
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テッドを思い出させる…お菓子を作りたくなかったのは本当。
でも、これをシュウに食べてもらいたかったのも本当。
『大切なひと』の為に…幸せだと感じて欲しくて。
たとえひとときでも。
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こころを痛める懐かしい思い出があっても。
この時だけ、今だけ過ごせる時間。
何も言わない優しいあなたと、過ごせる時間。
それは、…それは甘いひととき。
「みんな……僕に甘いね」
みんなのくれる、優しくて甘いひとときに……零れ落ちた涙は何処までも甘くて、苦かった。
- end -
2013-11-23
綾時期熾様から、サイト再開祝いに頂いた作品です。(2008.5.17UP)
シュウ兄さん大好きな私にはとてもとても嬉しい一品でした!
綾時様、ありがとうございました!!