神の御座す国、アルディーノ。
アルディーノ七領が1つ、ラグラットは領土のほとんどが砂に覆われた地である。昔から水不足に苦しみつつも、アルディーノの中央にあるという立地を生かした交易を糧に生き延びてきた。また、厳しい砂漠の旅に慣れた者が多いため、領内を通る品物や人の移動を任されて運輸業が発展。他領から多額の報酬を得ている。
そんな、砂漠の移動に欠かせないのはオアシスの存在だ。砂漠に点在する水のある場所に自然と人が集まり、村が、町ができる。ラグラット領主が住む町も元は小さなオアシスだったそうだが、今では大きく発達し、アルディーノ中の珍しい品や食物が集まる巨大な商店街が目玉になっている。
今の領主になってからは砂漠の緑化にも力を入れるようになり、乾いた地でも育つ植物や野菜が生み出され、少しずつ世間に出回り始めている。
「バアル様、今日はティアリード産の美しい絹織物を持参いたしましたわ。ぜひ、当ててみてくださいませ」
「そんなものより、アスケロウスの最高級白檀の香をお試しくだされ」
「砂漠の夜はとても厳しいでしょう? スプライドにしかいない雪ウサギの毛で作ったマントをお使いください」
「私はイラースで作られたカラクリ人形をお持ちいたしましたわ。どうぞご覧くださいませ」
「それよりも、どうです? ウィーディアの名水で作られました一級品のワインでございます。ぜひひと口……」
「バアル様、こちらはどうでしょう! ルストリア産のダイヤをあしらった髪飾りでございます」
宮殿と呼びたくなるような、真っ白な石作りのラグラット領主の館。その主の執務室にまで押しかけた各地で有名な商人たちは、不機嫌さを隠そうともしない黒髪の男 ―― バアル・ゼブルに群がっている。
腹の中は真っ黒な虫けらどもめ…っ!
浮かべられた笑顔すら欲に塗れて見えるバアル・ゼブルは、大きなため息の後で男にしては高めの良く響く声を張り上げる。
「アスタロト! アスタロト!! どこだ!」
「は、はい……!」
補佐官用の続き部屋から聞こえた声と近づいて来る足音に、バアル・ゼブルにとって招かれざる客たちがざわつきはじめる。
「お、お呼びですか、バアル様」
執務室に入る一歩手前で止まり、ロバの耳の生える頭をペコリと下げた青年は、おどおどとした表情で主を見る。
「お客様のお帰りだ。出口まで案内しろ」
「はい…っ!」
命じられるままにバアル・ゼブルの周囲を囲む客人たちに近づけば、「ひぃぃ!」「キャー…っ!」と小さな悲鳴が上がる。それによってアスタロトは一瞬立ち止まるが、主の命令だ。途中で投げ出すわけにもいかず、後5歩…というところまでやってきた時だ。
「だ、大丈夫です! 出口はわかりますから…」
背が低くでっぷりとした体格の男が、アスタロトがそれ以上近づかないように左手を前に押し出した。残りの5人はその背に隠れ、怯えた目でアスタロトを見つつコクコクと頷く。
「そ、そうですか……」
大丈夫だと言われてしまえばそれ以上近づくことができず、困ったように立ち尽くす青年に引きつった笑みを見せた商人たちは、そのまま背を見せないように廊下に繋がる扉まで移動すると、「失礼いたしました!!」と裏返った声でバアル・ゼブルに向かって挨拶し、そそくさと退出していった。
「フフフ……ハハハハッ! お前は本当に有能で助かる」
「そ、そんな……」
大きな笑い声を上げた領主に褒められ、アスタロトは喜んでいいものかと困った顔になる。そんな彼に暗い赤色の目を向けながら、バアル・ゼブルは椅子の背にもたれる。
「領主と言う立場は面倒だな。ああいう金に目がくらんだ者たちも、守らねばならない時があるとは。できるものなら即刻切り捨ててやりたいのだが」
それは、神に天罰を与えてくれと言っているような発言で、茶の瞳を見開いたアスタロトは慌てて主の元へ駆け寄る。
「バ、バアル様! そのようなことをおっしゃっては!!」
「問題などあるものか。俺が他人(ひと)を憎んでいることを知っていて、神は『魔力』を与えたのだからな」
「ですが……」
「わかっている。やりすぎには気を付けるさ。俺だって命は惜しいからな」
不敵に笑った領主は、心配そうに己を見つめる唯一の補佐官へ視線を向けると、からかいの表情になる。
「ところで、今日はロバにはならないのか?」
「な、なりません! それに今は仕事中で……」
「仕事中でも、落ち込むと俺の机の下に潜っているくせにか」
「バアル様!!」
真っ赤になるアスタロトに、くつくつと笑うバアル・ゼブル。彼の言う通り。落ち込むことやショックな出来事があると、アスタロトは動物の姿 ―― ロバになって主の机の下に籠るのだ。
『魔力』を得て100余年。家族は皆、天へと召され、今はバアル・ゼブルだけがアスタロトの家族である。主にとっては、己も他の人間と変わらない存在であると理解しているが、どんな形であれ自分を必要とし側に置いてくれるバアル・ゼブルだけが彼の心のよりどころなのである。
短時間ではあるが2日に1回はロバになっていた部下が、ここ5日ほど人間の姿のまま頑張っているのだ。落ち込む気持ちに勝る感情が彼の中に生れたのではないかと判断したバアル・ゼブルは、立ったままの部下をニヤリと見上げる。
「何か良いことがあったな?」
「……!!」
「図星か」
ピンと耳を立てて、先程よりも更に顔を赤く染めたアスタロトに唇の笑みを深める。そのまま黙っていてはより一層からかわれるだけと思った部下はアワアワとしながら話を仕事に戻す。
「バ、バアル様! ほ、本日これから、商工会議所の方々との会議が入っております。じゅ、準備をお願いいたしますっ!」
「……あの古狸たちの集まりか」
商工会議所、と聞いたとたんに眉間に皺を寄せて嫌悪感を露わにしたバアル・ゼブルは深くため息を吐く。
「お前も来い」
「よ、よろしいのですか?」
「奴らに余分なことを喋らせないために、必要なのよ」
「……は、はい……」
彼の意図が掴めたアスタロトは、準備のために立ち上がる主の背に向かって頷く。だが、その表情は敬愛する主の役に立てる嬉しさよりも、胸を締め付ける悲しさによって歪んでいた。
「……マナ、アマナ!」
目の前で振られる手の平にハッとして、やっとアマナは『自分』が呼ばれていることに気がついた。
「仕事で疲れた? だったら、おれに付き合ってくれなくても大丈夫だよ?」
もう少しすれば白い街並みが夕日色に染まる時間。街の中央にある広場で待ち人と合流したところだったというのに、ボーっとしていて心配させてしまったことに、いけないいけないと首を振ったアマナは、ニコリと笑って見せる。
「ううん、何でもないよ。それよりエゼル。夕飯に何が食べたいか決まったかい?」
「もう、色々ありすぎて! 決められないよ!」
揚げまんじゅうに、羊肉の包み揚げ、焼き飯に腸詰、肉たっぷりのうどんも捨てがたいし……と列挙していくエゼルは、17歳の少年らしく夕焼け色の瞳をキラキラと輝かせている。
「だったら、屋台で売ってるものを少しずつ買ってきてこの辺で食べる? 食べられる物は限られてしまうけど、お店に入るより色々な味が楽しめるよ」
「それいい!! そうする!!」
言うと同時にウキウキとした足どりで屋台の多い方へ向かう背中に、アマナは目を細めたのだった。
アマナ ―― アスタロトがエゼルと出会ったのは、6日前の夕方のこと。
基本的には『魔力』を使って自宅へ瞬間移動して帰るのだが、1週間に1度は食材を買い足す必要がある。それ故に歩きで商店街に立ち寄ったとき、揚げパンを売る屋台の前でうんうん唸りながら悩む彼を見つけてしまった。
歩いていても周囲の人間の方が避けていくアスタロトである。気にすることなく通りすぎるつもりだったが、すれ違う時に聞こえた小さな呟きで、店主ですら話しかけるのを躊躇う形相の彼が、ただ、何味のパンを買おうか悩んでいるだけなのだと知り、思わず振り返ってしまったのだ。
その動きが目に入ったのだろう。エゼルと視線がバッチリ合い、
「わ、私はやっぱり、プレーンが1番美味しいと思うよ」
と、思わず答えてしまっていた。
しまった、と思った。
この街の人間でアスタロトを知らない者はいない。バアル・ゼブルの補佐官だと言うこと以上に、ある事件で有名になってしまった自分は、人々に避けられる存在なのである。
きっと怖がられると思って顔を背け、急いで彼から離れようと思ったのだが、あろうことか彼はアスタロトの腕を捕らえて礼を言い、他にオススメの料理を教えて欲しいと頼んで来たのだ。
よくよく聞けば、彼はラグラットに住む者ではあるがこの街に来てまだ数日とのこと。エゼルの行動はアスタロトの顔を知らないからこそのものなのだと納得していたら、彼に名前を聞かれてしまった。
正直に答えるべきだと思った。
けれども、怖がることもなく親しげに話しかけられたのは何十年ぶりのこと。そのささやかな幸せをもう少しだけでも味わいたいと思ったアスタロトは、隣の店で売られていた植物の名を口にしていたのだった。
アスタロトはアルディーノで1番の植物学者である。この世界に自生する植物の研究を行いながら、自らも育て、新しい種を生み出しているのだ。
バアル・ゼブルが彼を補佐官に望んだのは、その頭脳を買ってのこと。ラグラットは砂漠の広がる、植物には特に厳しい土地である。緑化は欠かせない事業だと判断したからこその行動だった。
アスタロトが補佐官の契約をすると決めたのも、大きな見返りがあってこそ。主と同じく長い生を得られることができれば、それだけ研究が続けられ、新たな植物を創り出すことも、植物を使った薬も開発できると考えたのだ。
出会った頃から他人を憎んでいることを隠すことのなかったバアル・ゼブルであったが、それでも、治水事業をはじめ、ラグラットのために奔走する姿を見れば尊敬しないわけはない。
そんなバアル・ゼブルにより心を開くきっかけとなったのは、34年前のこと。
アスタロトの作った薬で子どもが亡くなった事件が起きた。それが原因で『毒を生み出す悪魔』と呼ばれるようになったことで、近寄るだけで殺されるだの、吐く息が毒だの……憶測だけの噂が世間に広まり、人々に避けられる存在になってしまったのだ。
人付き合いが得意ではないからと研究を1人で行ってきたことも、悪い噂ばかり広がる要因のひとつであったが、既に家族もなく、ひとりきりのアスタロトをバアル・ゼブルだけは遠ざけることがなかった。
自分にとって救いである兄のような存在の主。いつか、その傷ついた心が癒える日が来ればいいのにとひっそりと思うのだった。
「あ、これ! この野菜見たことない!」
両手に屋台で買った品物を持ったエゼルは、はね上がった青灰色の前髪を揺らして通りかかった店に駆け寄る。橙色の瞳が向けられている先には、星形の野菜が綺麗に並べられている。
「あぁ、それは新種のカボチャだよ。ラグラットの乾いた土でも育つように改良されたもので……」
「へぇ〜! 詳しいんだね」
だって、私が品種改良したんだから……と口にしそうになってハッとする。
昔より領主に仕える植物学者の数は増えたものの、その人数は限られているのだ。不用意な発言で己がアスタロトと知れてしまっては意味がない。
慌てて首を横に振ったアスタロトは、咄嗟に浮かんだ言い訳を口にする。
「あ、いや……うん、最近買って料理したんだ……」
「え! アマナ、料理できるの!?」
「う、うん。人並みにはできると思うけど」
「手料理食べてみたいな〜」
「そ、そんな……ごちそうできるような腕じゃないよ?」
「それでも食べたい!」
思わぬ食いつき様に、アスタロトは思わず笑みを零す。
「エゼルは、本当に食べることが好きなんだね」
「うん。昔、好きに食べられなかったから。今こうやって何でも食べられるのが嬉しいんだ」
話題の転換のために発した言葉から知ったこと。詳しいことはわからなくても、それでもエゼルのことを少し深く知ることができた気がして、とても嬉しかった。
その日、彼と別れた後も、アスタロトの心は弾んだままだった。
*****
アスタロトの中で木霊する音。
耳鳴りのようなそれに眉を寄せながら、耳を塞ぐ。
目に映る風景はラグラットの商店街にある1番の大通りであったが、色はなく、全てが白黒のそれに、これは夢なのだと心のどこかで理解した。
雑音ばかりで明確な声など聞こえてはこない。だが、己を遠巻きにする人々の普段と変わらない視線に息が詰まり、胸が苦しくなる。動悸が激しくなって、身体に細かい震えが走る。
こ、これは夢だから…だ、大丈夫。
言い聞かせながら深呼吸しようとしたその時。夢の世界でただひとり。色を持った人物を見つけて目を見開いた。
ピョンとはねたブルーグレーの髪に夕焼け空の瞳。その持ち主は、アスタロトをアマナと呼ぶ唯一の人間だ。
エゼル。
声は、出なかった。それがまたアスタロトの中の不安を煽り……自分を見つめる冷たい瞳を前に動くことができない。
「あんたが、あのアスタロトだったなんて……。おれを騙してたんだね?」
騙してなんか…!
「近寄らないで! おれ、死にたくないもん」
違う…っ!!
「違わないよね? だってあんたは『毒を生み出す悪魔』なんだから」
*****
「違う…っ!!!!」
目覚めた寝台は、ぐっしょりと冷たい汗で濡れていた。
昨夜寝る時まで弾んでいた気持ちはどこへやら。肩で息をするアスタロトの茶色の瞳には涙が滲み、夢の中の己と同じくガタガタと震えていた。
人に会うのが……エゼルに会うのが怖かった。
それでも、仕事が終わった夕方、彼に会うのを楽しみにしている自分もいて、足取りは重くても待ち合わせの広場に向かってしまう。
「アマナ!」
手を振りながら嬉しそうに駆け寄って来る姿に、硬いながらも頬が緩む。
恒例のように今日は何を食べるかという話をしながら商店街へ向かったが、アスタロトの耳はエゼルの声ではなく、いつもはシャットダウンしている雑音を拾っていた。
「あ、また『悪魔』が来てるー」
「近寄っちゃいけません!」
「人が多いところにわざわざ出てくるなんて、そんなに人を殺したいのかね?」
「営業の邪魔になるんだよっ! 早くどっかいきやがれっ」
「うちの商品に毒が混じったらどうするんだ…この人殺しが」
あぁ、これがエゼルに聞こえていたら。自分がアスタロトだとわかってしまったら、どうしよう。
夢の中の冷たい橙色を思い出し身体が竦む。
急に歩みを止め青白い顔で震える年上の男の様子に、エゼルは周囲へ鋭い視線を向けると声を張り上げる。
「影でコソコソしゃべってないで、言いたいことがあればはっきり言えよっ! でも、あんたたちにアマナの ―― アスタロトのことを人殺しなんて呼ぶ資格はないはずだろ!?」
「…っ!? エ、エゼル?」
「アマナもアマナだ。陰口叩くことしかできない人のこと気にしてどうするんだよ?」
驚きのあまり口をパクパクさせることしかできないアスタロトにも、怒ったような瞳を向けたエゼルは、恐る恐る声を上げる街の人々の方を振り返る。
「で、でも! 薬じゃなくて毒を渡されたって噂があるじゃないか」
「噂の真実も知らないくせに?」
「子どもが死んじまったのは事実なんだろうが」
「でも、この人が毒なんか渡すわけないんだよっ!!!」
シーンとした商店街に、エゼルの叫びが一段と響いた。
「今、この砂の国に緑が蘇っているのは誰のおかげなんだよ? そこに売ってるカボチャも、そこの肉団子のスープに使われてる香辛料だって、この人がいなきゃなかったものだろ? この人の恩恵を受けてない人はラグラットにはいないはすだ! なのに真実も確かめずに古い噂を信じて悪口言って避けてるなんて、馬鹿げてるっ!」
少年の主張に口を挟める者は誰もおらず、皆、目線を外すばかり。その沈黙の中、ようやく声帯に仕事させることが出来たアスタロトはギュッと拳を握る。
「で、でも……私は本当に、助けられなかったんだ…っ…」
心臓の病気で苦しむ者のために開発した薬だった。
昔から毒草として知られていた植物が持つ成分が、特効薬に成りうると知り、研究に研究を重ねて出来上がったものだった。
大人の患者に効果が確認されたことで、子どもにもその薬を飲ませたいと言う声が高まる。
そこでもっと、時間をかけて改良していればよかったのだ。
なのに、自分の力を過信して。十分な検証も足りないままに投与した薬は子どもには強すぎて、逆にその命を奪ってしまった。
「自分を責めたくなる気持ちはわかるよ。でもさ、よく考えてよ。領主さんやあなたがアルディーノの神様に与えられてる『魔力』でも、死んだ人を生き返らせることはできないし、病気や怪我も治せないんだよ? ってことは、この世に万能薬は存在しないってことだろ?」
言われてはたと気がついたのは、アスタロトだけではない。同じ場にいるラグラットの民もまた、知っているのに知らなかった事実を知らされて、ざわめきが広がっていく。
それを感じながらも、エゼルは茶の瞳を見開いたアスタロトから目を離さない。
「神様が許してないんだから、この世界で人が死ぬ時はそういう運命なんだよ。全てを助けるなんてそもそも無理な話なんだ」
「それでも! 大切な人が死ぬのは誰だって耐えられない! それが、天寿を全うしてのことじゃなければ余計に……。だから私は、飢えや病気で苦しむ人たちを少しでも助けられるようにと、思って……」
それ以上言葉は続かなかった。
だが、吐き出された想いはアスタロトが植物学者になった根本であり、事件後も新薬の開発をせずにはいられない理由でもあって、ずっとずっと抱え続けてきた苦しみが、透明の雫となって白い頬を流れ落ちていく。
「……うん、そうだよね。おかげでおれも助かった」
少年は、泣きそうな笑みをアスタロトに向けて頷く。
ラグラットの中央。最も砂漠化の進んだ地域に残る小さなオアシスに生まれたエゼルの心臓は、人より少し弱かった。
運動することができないためチビでガリの彼には、満足な治療を受けたくとも、砂漠を超える体力すらなく、せめてしっかりと栄養を取らせたいと両親が願っても、緑化がなかなか進まない地では、皆が生きるための食べ物を確保するのも精一杯で、病気の彼の身体を支えられるような栄養価の高い食べ物もなかった。
時々訪れる隊商や、働きに出た者が持ち込む薬や食べ物で、焼け石に水ではあっても日々をなんとか暮らしていたエゼルは、今日か明日か。間近に死が迫っているのをずっと感じていた。
そんなオアシスに、アルディーノで1番長い歴史を持つ雪の国、スプライドから来た旅医者がやってきた。彼が持ち込んだ薬が驚くほどよく効いて、少しずつ身体が鍛えられるようになったエゼルの心臓は、無理は利かないながらも、普通に生活できる程に回復したのである。
「おれね? 誰がその薬を作ったのか、その医者に聞いたんだ。だって、それまでだってたくさん薬を飲んできたのに、まるで効かなかったんだよ? なのに、飲んで数日でおれに未来を感じさせてくれたんだもん。気になるだろ?」
キラキラと輝く瞳を涙の乾かぬ目で見ながら、アスタロトはまさかと思う。
「なかなか話してくれなかったんだけど、秘密にする約束でやっと教えてくれたのがね? アスタロトの名前だったんだ」
そう、ニコリと笑った少年の前で、やはりそうだったんだと口元を押さえた。
12年前だ。
植物学者としても補佐官としても、砂漠化の1番進む地域の様子をこの目で見なければ緑化政策にも活かすことは難しい。そうして訪れたオアシスに、病気で苦しむ子どもがいることを知った。
悪名轟くアスタロト自身が動くことはもちろんできなかったが、部下に無理を言って子どもの病気のことを詳しく調べさせた。そして、その病気が昔、己の薬で命を落としてしまった子どもと同じものだと知ったのだ。
あの事件の後、何もしていなかったわけではない。問題が起きたからこそ改良を重ねて、商品になる薬を完成させていた。とはいえ、アスタロトの名を出してしまえば、その薬を使おうとする者はラグラットにはいないであろう。
「噂なんかそのうち消える」
バアル・ゼブルの言う通り、時が解決することもある。だが、それでは遅いのだ。助かる命を見殺しにすることなどできないアスタロトは、他領の力を借りてまで薬を持たせた医者をそのオアシスへと送ったのだ。
エゼルが、その子だったなんて。
驚きと喜び、苦しみなど、色々な感情の入り混じった表情で立ち尽くすアスタロトから視線を外した少年は、周囲をぐるりと見渡す。
「いくら『魔力』を持っていても神様の意思に背けば天罰が下るんだ。何でもできる万能な人間なんて、この世にはいないんだよ。それでも、ラグラットのために……この世界のために努力を惜しまないこの人のこと、悪く言うなんて許さないからな!!?」
再び怒りを露わにした叫びに、言い返すことのできる者は誰もいなかった。
その後、こっちと手を引くエゼルに連れて行かれた場所は、彼が借りた部屋だと思われた。ベッドすら存在しない殺風景な室内は、彼が本当にこの街に来て間もないのだと教えてくれる。
傾いた太陽の光は3階にあるこの部屋にしっかりと入り込み、中にいる人間も全て、夕焼け色に染まっていた。
「ご、めん…」
冷静になったアスタロトがまず口にしたのは、謝罪の言葉だった。
「何で謝るの?」
「君に、嘘を吐いていたから……」
何も知らないのをいいことに名前を偽った。悪いことだとわかっていて、それでも笑いかけられるのが嬉しくて、言い出すことができなかった。
「それならおれも謝らなきゃいけないね」
「……え?」
「おれ、あなたのこと最初から知ってたんだ。知ってて何も言わなかった」
街の人の陰口からわかってしまったのだと思い込んでいたアスタロトは、エゼルの言葉に目を見張る。僅か下にある橙色の瞳を細めた少年は、青灰色の髪を右手で撫でつける。
「嘘の名前を教えられた時はちょっと嫌な気持ちになったよ。でも、一緒にいるうちに、そうした理由が痛いくらいわかって……もう、どうでもよくなった。アマナが笑っていてくれるなら、それでいいって」
その優しい笑顔から身体全体に広がる喜び。止まったはずの涙で再び視界が滲むのに、チクリと胸に感じる痛みがある。
理由は、ひとつ。
原因を作ったのは己だと分かっているからこそ、右手で痛む胸辺りをギュッと握ったアスタロトは、そこを今までになくドキドキさせながら息を吸う。
「あ、あのね? お願いがあるんだ」
「なぁに?」
「……アスタロトって呼んでくれる?」
事件より前に戻れたらいいのに。
何度も何度も考えた。
戻ることができないのなら、アスタロトという名を捨てて別人として生きたい。
ずっと、願わずにはいられなかったことなのに。
嫌って来たその名で呼んで欲しいと思うなんて。
偽りではない本当の自分に、笑いかけて欲しいと思うなんて。
「アスタロト」
じわり。
さっき以上に溢れ出した感情で、涙が目尻から零れ落ちる。
「うん」
「アスタロト」
「……うんっ!」
勢いよく頷くアスタロトの頬に伸びた指先が雫を掬い、上向いた唇が紡ぐ言葉。
「好きだよ?」
「う、………えっ!?」
「大好きだよ」
「ええええっ!!?」
頷きかけた動きをピタリと止めて、喜びよりも勝った驚きに涙が止まったアスタロトは、夕日色に染まっている。
立ち尽くしたままの彼をそっと捕まえたエゼルは、逃げられないように腰に回した左手を引いて悪戯っぽく笑う。
「だから、アスタロトを食べてもいい?」
少年の意図がわかったからこそ目を白黒させるアスタロトの左手を、エゼルは己の口元に引き寄せる。
「いい?」
指先に触れる唇の感触に、首を傾げて見上げてくる橙色の澄んだ瞳。
一層高鳴った胸が、望む答えをアスタロト自身に教えていた。
「……ど、毒があるかも、しれませんよ?」
「おれにはおいしいごはんですー」
近づく夕暮れに笑みを返しながら、そっと瞳を閉じた。
- end -
2015-6-17
「Guidepost」様のキャラ(まだ未登場…なのかな?)をお借りして書いたお話…第五段です。
設定としていただいたキャラは、バアル・ゼブルとアスタロトですね。
部下のアスタロトに焦点を当てたお話になりました。
エゼルは完全なる創作キャラです〜。
屑深星夜 2015.6.14完成