サン 1

「ウサギが1匹」


 言いたくても言えない。聞きたくても聞けない。すれ違う人々のそんな視線を受けていながらも、男 ―― サン=ナハトはまるで気にしていない様子。スキップでもしはじめるのではないかと思えるほどの浮かれた足取りは止まらない。
「ね、ママー! あのひと、なんでカサさしてるの〜?」
「し…っ!」
 誰もが口にできなかったことを言ってしまった我が子に母親は慌てるが、声の聞こえる範囲にいた者は「ナイス!」と思わず内心でガッツポーズしたくなるほどである。
 少年の疑問は最もだ。今日は雲一つない晴天。日傘であればまだしも、サンが差しているのは真っ黒い蝙蝠傘なのだ。また、着ている服はヨレヨレで、傘と同じ黒いコートは裾がビリビリに破れている。そして、両手の甲に見えているのは真っ白な包帯……。人通りの多い街中には明らかに似合わない格好なのだ。
 母親は、興味深そうに自分と変な男を交互に見上げる息子を引っ張って行こうとするが、その前に黒い瞳を少年に向けたサンは、彼の目の前にしゃがみ込むと尖った八重歯を見せてニカッと笑う。
「おう、ボウズ。おれはな、こいつがねぇと散歩もできねぇんだよ」
「どうして〜?」
「お天とさんが苦手なのさ」
「ふーん…」
「こらっ! すいません! 息子が失礼なことを……」
 無理やりに子どもの頭を押さえつけて謝る女性にも、浮かんだ笑みは変わることはない。
「いやいや、気にすることねぇ。ボウズ、またな!」
「うん!」
 顔を上げた少年の茶髪をワシワシと撫で繰り回した彼は、笑顔で手を振って去っていく彼にひらりと右手を振る。
「……ん?」
 その背が消えるまで見送ったサンは、クルリと反対方向を見た瞬間あるものに気がついた。数十メートル先にある街路樹に引っかかったピンク色。近づいてみれば、ウサギの形の風船であった。
 周囲を見回してみるも、風船を配り歩いている人物も、探している人物もいそうにない。
「なんだ、お前迷子か〜?」
 物であるにも関わらず、先ほどの子どもに話しかけているかのようである。もちろん、風船が返事をしてくれるわけはない。
「そうか。んじゃ、おれと一緒に行くか?」
 しかし、返答があったかのように会話を続けたサンはニコニコと頷くと、コートのポケットから出した折り畳みナイフで、右手の親指をチョンと切る。プクリと丸く雫を作った赤い血だったが、傷口に繋がったまま蛇のように細長く宙に線を伸ばして風船の側へ近寄っていく。そして、風に揺れる紐をパカリと開けた口で捕らえた。
「よっし」
 よくよく見れば小さな龍の形をしたそれを己の元へと引き寄せたサンは、空いた左手でそれを受け取る。その瞬間に赤い龍は消え、血の滲む指をペロリと舐めた。
「ウェェ…まっず……」
 舌を出し不快感を露わにした彼だったが、何度かゴクリと唾を飲んでその感覚を無くすと、風船を隣に浮かばせて再び歩き出す。

「……やっぱ、止血用の何かを持ち歩くべきかねぇ……?」

 小さな呟きは、ふわふわ後を追っていくウサギにしか聞こえていなかった。

- continue -

2013-12-12

我が子、サンの1話目。


屑深星夜 2013.12.2完成