「……わかったわよ。食べてみればいいんでしょ?」
おれは、本当は嫌だって言うのが見ただけでわかる小竹さんの顔に、ごめんなさい、と心の中で謝りつつも、クッキーを手に取ってくれたことに言いようのない喜びを感じていた。
その間にギュッと目を閉じた小竹さんは、おれが見つめる前でそれを勢いよく口の中に放りこむ。
恐る恐る…ゆっくりと動く口元。
いつそれを飲み込むのか。そして、その口がどんな言葉を発するのか。
気になって気になってたまらなかったおれは、まだ目を閉じたまま咀嚼を続ける彼女から目を離すことができなかった。
おれの今までの人生で最大の出来事だったって言いきれる、あの告白の日。小竹さんたちと別れたおれと涼と歩は、三尾駅近くのファミリーレストランに入った。
夕飯時ってこともあったけど、何より…おれが、あのまま家に帰れるような状態じゃなかったからだ。
「……まぁ、お前にしてはよくやっただろう」
この店の人気メニューの1つである皿からはみ出すほど大きいステーキを、ナイフとフォークを使って切り分けながら言う涼に続いて、野菜のたっぷり入った雑炊をひと口食べた歩がコクコクと頷く。
「おーしょー、やればできる子!」
「土下座したときはどうしてやろうかと思ったがな」
「う……ご、ごめん」
向けられた鋭い視線に背中を丸めて謝ると、食え、と言うようにプラスチックケースに入っていたスプーンを差し出される。ぎこちなく頷きながらそれを受け取ったおれは、目の前にあったデミソースのかかったオムライスをひとさじ掬った。
「とりあえず、あのチビ女の視界に入った。まずは第1歩だな」
「そーそー! 友だちになれてよかったなぁ!」
向けられたふたりの笑顔が素直にうれしかった。でも、その結果は自分の力だけでは得られなかったものだ。だから…。
「…ありがとう…」
…気持ちを込めて送り出した言葉にニヤニヤと寄せられた視線がくすぐったくて、おれは、掬ったままだったオムライスを大急ぎで口に運んで誤魔化した。
「これからどうしたらいいのかな…?」
呟きながら、すっかり空になった皿にカチャリと小さな音を立ててスプーンを置いたら、優雅にホットコーヒーを味わっていた涼がフッと鼻で笑うんだ。
「……ほう。ずっと友だちじゃ嫌だ、と言う訳だな?」
おれの心を見透かした言葉に、カァッと頬が熱くなる。
“友だちじゃ嫌だ”
つまり“友だち以上の関係”になりたい、ということ。
誰だって、自分が…す、好きになった人に、好かれたいって思うのは…自然なことだよな?
「う、うん……」
真っ赤になったまま大人しく頷くと、ニコニコと笑ったままこっちを見ていた歩が口を開く。
「まずは、おーしょーのこと、知ってもらわなきゃなんないんじゃね? 趣味とか好きなものとかさ」
「趣味とか好きなもの……」
言われて気がついた。
出会いが電車の中というおれと小竹さん。おれは小竹さんのことを好きになってから、できる限り彼女のことを調べてみた。歩っていう、同じ中学に通っていた人物がいたから自分だけで調べるよりも簡単に小竹さんのことを知ることができたと思う。
でも、おれのことに気づいていなかった彼女にしてみたら、おれは電車で彼女のことを助けただけの人間だ。(一応、友だちにまでは昇格できたけど)
そんな状態でおれのことを好きになってもらおうなんて…無理な話だよ。
ふんふんと首を上下させながら納得してたら、いきなりビシッと目の前に指を突き付けられる。
「あと…お前、その目、なんとかしろ」
「え…?」
「今すぐにとは言わないが、背の高さと同じくらいお前の印象悪くしてるのはその目つきだぞ。見えないなら眼鏡でもコンタクトでも買ってこい」
…なんてやり取りがあってから、おれは考えたんだ。目のことはすぐにどうにかできることじゃないから、近いうちに眼科に行くとして。
おれの趣味はお菓子作りだ。
好き嫌いなく育ったけど、中でも甘いものには目がなくて。人に作ってあげるためというよりは、自分で食べるために作っていたりする。
もちろん、食べてもらうのも好きだよ。母や妹が喜ぶ姿を見ると、また自分の分と一緒に作ってやろうかなって気になるからね。
そんなおれの趣味を小竹さんにも知ってもらいたい。そして、喜んでもらいたい、と意気込んで作ったクッキーを月曜の電車の中で渡そうとしたら……。
「……ごめんね。あたし…甘いもの、見るだけで気持ち悪くなるくらい苦手なの」
「えっ!!?」
「そうそう。由衣子、ホントにダメなんだよ」
「ケーキ屋さんの前を通っただけでも、顔色悪くするんですよ〜」
「正直、ウィンドウの向こうにあるのも、CMで映るのも見たくないくらいね。それもこれも、小さいころに姉ちゃんと兄ちゃんが変なことするから……」
事情を聞いて、そのときは諦めた。だって、気持ち悪くなるほど嫌な物を押し付けたって、印象悪くなるだけだろう?
でも、おれの自慢できるものって言ったら…これくらいしかないんだ。ここで諦めてしまったら、小竹さんにおれのことを好きになってもらうこともできない。
そう思って、おれはあることを考えたんだ。
それは…甘くないお菓子を作ること。
お菓子は甘いものってイメージが強いけど、ポテトチップスとかのスナック菓子があるように、別に甘い必要はないと思うんだ。
甘いものは脳の働きを助けるからって、お茶のお供に甘いものを食べる人が多いのは知ってる。おれだってそのひとりだし、涼だってチョコレートを常備しているくらいなんだからな。…信じられないかもしれないけど、あのルックスで結構なスイーツ好きなんだ。
でも、別にそれが甘いものじゃなきゃいけないってわけじゃない。
お菓子は、勉強の合間や仕事の合間に少しの癒しを与えてくれるもの。その人の休憩時間を支えてくれる、ちょっとした食べ物がお菓子なんじゃないかとおれは思う。
だから今日は、その日から毎日試作品を作ってやっと完成した“甘くない”クッキーを持って来た。
どうしてクッキーにこだわったかっていうと、少しでも小竹さんの条件反射のような思い込みを崩せればいいなと思ったからなんだ。
甘いものの匂いを嗅いだり、実際に目の前で食べているところを見たりして気持ち悪くなるだけならいい。でも、テレビで見ただけで気持ち悪くなるっていうのは…小竹さんの中で、ケーキやクッキーは“甘いもの”ってイメージができあがっちゃってるからなんだろう。
それって……とても暮らしにくいと思わないか?
この世の中から甘いものをなくしてしまうことは、不可能だ。
スーパーやコンビニには常時そういうものが置かれているし、テレビだけじゃない。雑誌はもちろん、街中の看板や電車の広告にだって写真が載ってる。あえて調べたことなんかないけど、甘いものはおれたちの生活の中に溢れかえってるんだ。
ということは、それらが小竹さんの目に映らないことはほとんどないはず。いつもいつも視界に入るたびに嫌な思いをしてるんだろう…って想像するだけで、辛くなってくるよ……。
でも、ケーキやクッキーが“甘くないもの”だって思えれば、甘いものは好きになれなくても見ただけで…ってことはなくなると思うんだ。だから、小竹さんのイメージが少しでも変わる手助けになってくれればいいな、と思って作ったクッキーを、1枚だけでもいいからと拝み倒して食べてもらったんだ。
10回。丁度それだけ口を動かしたそのとき。パチリと小竹さんの目が開いた。
おれの目線からじゃしっかりと確認できない小竹さんの表情を窺おうと身体を傾けて覗き込むと、驚いたような…それでいてとても不思議そうな顔した彼女が噛み砕いたものを飲み込んだ。
「……ホントに甘くない。これ、チーズ入ってる?」
「は、はい! チーズとアーモンドプールを使って、おつまみ風な味付けにしてみました! どう…です、か?」
恐々と聞けば、表情を変えることも忘れてしまったのか。
「おいしい」
飲み込んだときと同じ表情のままそう言ったんだ。
やった!!
うれしくて思わず、クッキーの乗っていない方の手をグッと握ると、ハッとした小竹さんが急に俯いた。その状態じゃあ覗き込んだ体勢でも後頭部しか見えなくて、しゃがみこんだら、恥かしそうに頬を染めたところが見えてドクンと胸が鳴った。
「あ、あの……べ、別のも作ってみるので…また食べてくださいね!」
照れ隠しに手に乗せたままのクッキーを差し出しながら言うと、困ったようにクッキーとおれを交互に見た小竹さんは、
「……うん」
1つ息を吐いた後で頷いてくれたんだ。
「すごいな、将磨!」
うれしくなってニコニコとそのまま彼女を見つめていたら、バシンと大きな音が鳴るほど強く背中を叩かれた。痛みに顔をしかめつつ振り向いて立ち上がると、菊屋さんが満面に笑みを浮かべておれを見上げてくる。
「これで由衣子の甘いもの嫌いが治れば、一緒にケーキバイキングに行くのも夢じゃなくな…」
「今度は横にでかくなるつもりか? 男女」
途中、割り込むように横から聞こえてきた声に笑っていた頬をひきつらせた菊屋さんは、ギロリとその声の主 ―― 涼を睨みつける。
「その辺は他の食べ物でしっかり調節するからいいんだよ!! 他人の食生活に口を出すなっ! このドS男!! 私より背が小さいからって身体の大小に妙にこだわりやがって……あ、私にもくれ」
さっきまでの勢いはなんだったのか、と思えるほど涼に向けていた表情とはパッと変えた彼女は、おれの手の上にあったクッキーを1枚手に取るとパクリとひと口で食べてしまった。それを見て、わざとらしく鼻で笑うのはドS男……もとい、涼だ。
「あーあぁ、将磨がチビ女のために作ったものを横取りとは。お前は身体だけじゃなく態度もでかいのか…」
「なんだと!? こっの…男のくせに口から先に産まれたみたいにベラベラよく喋りやがって……っ!!」
「男が喋って何が悪い? 社会に出れば口が上手くなけりゃ生きて行けないと思うがな」
「社会に出れば、だとぉ? お前のその口の悪さで営業なんかできると思ってるのか!」
「誰が営業なんて面倒な仕事をすると言った?」
「なっ!! この……」
「さーちゃん!! かんちゃん!!!」
ビクリ、と今にも掴みかかろうとしていた菊屋さんと、臨戦態勢に入っていた涼の身体が震えた。響いた声はとても大きく、呼ばれてないおれまでびっくりしちゃったけど……ね。
発した人は、綾部さん。声を荒げることなんてなさそうな、レースやリボンが似合うおっとりした人だ。
きっと、今までそんな風に大きな声を出すことなんてなかったんだろう。おれの後ろにいた小竹さんも、驚いて目を見開いたまま固まってた。
4人の視線を浴びた彼女は、ニッコリと花が綻ぶように微笑むと、
「その辺でおしまいよ〜」
背筋がゾクリとするような得体の知れない冷たさを伴った声でそう言ったんだ。
きっと同じ感覚を味わったんだろう小竹さん、菊屋さんがブルッと震える。涼は…というと、嫌そうな顔をして綾部さんを見つめていたが、何も言わずに大きなため息を吐くと菊屋さんから1歩離れて腕を組んだ。
つられたようにはぁ…と息を吐いた小竹さんは、呆れたように肩を竦める。
「会えばいつもケンカして……2人とも、よくそんなにネタがあるよね」
「ネタだらけだろうが」
「人のこと言えるか!」
「……おれ、涼がこんなに人につっかかるの、はじめて見るなぁ」
お互いに腕組みした恰好で睨み合いをはじめてしまった2人に、込み上げてきた笑いを止められなかったおれがそう言うと、菊屋さんが疑いの目を向けてくる。
「はぁ? いつもこうじゃないのか?」
「失礼なことを言うんじゃない、この男女! 俺だってわきまえるところはわきまえる」
「じゃあ今もわきまえろよ!!! ドS男!!!」
「その必要性を感じないな」
……そうして、また2人は他愛もないことで口ゲンカをはじめてしまったんだ。
とばっちりを受けてはたまらないし、さっきみたいに綾部さんを怒らせるのも嫌だったので、こっそりと離れた場所に避難したおれたちは、ニコニコしながらその様子を見ていた。
「仲良いなぁ」
「そうですね〜」
「ホントにね」
「「どこがだ!」」
そういうとこだよ、と言ってやりたいと思いつつ。あまりにもピッタリそろった2人の行動にお腹を抱えて笑ってしまったので、それは叶わなかったんだ。
- continue -
2013-11-23
屑深星夜 2011.4.16完成