ハァハァと上がる息に胸を抑えつつ、最後のスパート…と改札に定期を通してホームへの階段を駆け上がる。いつもの乗車口近くまで行くと、おれを見つけた涼が目を座らせて立ちあがった。
「涼!!」
「遅い」
「ごめん…目覚まし止めてた」
不機嫌な声に頭を掻きながら謝ると、
「柳楽からは先に行くってメールが来てたぞ!」
と、乗車する人たちが並ぶ列に移動しながら言った。
その後ろを追いかけつつパーカーのポケットに入れたままだった携帯を取り出すと、メール受信を知らせる赤いランプが点滅していた。おれは、折りたたみ式のそれを開けて中身を確かめる。
5/7(月)07:57
from 柳楽歩
subject Re:
いつも乗る時間に起きるってどうよ
オレは先、行くなー
頑張って地獄の坂、駆け上がってこいよ
地獄の坂…そうだ。最後の最後であそこを走らなきゃいけなかった……。
おれが通う群青大学は駅から約10分の場所にある。元々山だった所を切り開いて作った地域だから、駅から大学まではずっと坂だ。
でも、最初はまだいい。少しずつ上っているな、というくらいだから。(逆にその方が疲れるって歩は言ってたけど)
問題は、大学の正門入ってから。そこからが地獄なんだ。
誰もが見上げるような傾斜のきつさで…全長100m近く。陸上部とかの練習場所には最適なのかもしれないけど、歩いて上るのですら結構息が上がるこれをダッシュで駆け上がるなんて……。想像もしたくなかった。
おれたちは、やってきた電車に乗りこむ。まだラッシュ時間にかかってることもあって空席がなかったので、そのまま奥に進んで反対のドアの前にあったスペースに立った。
進行方向に背を向けて、座席にもたれかかった涼が聞いてくる。
「ゴールデンウィーク、恒例の家族旅行だったんだろ? どこ行ったんだよ」
「あ、うん。S県のM町に行ってカヌー乗って来た」
「カヌー?」
一瞬、眉間に皺を寄せた涼はため息と共に方をすくめる。
「お前の家は相変わらずアクティブだな」
「ま、ね」
それに苦笑しながら、今も信じられないくらい仲のいい両親の顔を思い浮かべた。
今年、結婚20周年を迎えるのに新婚かと思えるくらいのラブラブっぷりは、息子のおれからすると恥かしいばかりだ。
出会いが大学の山岳部(今で言う、ワンダーフォーゲル部かな?)だったそうで、今も夏にはそのメンバーたちとどこかしらの山に登ってる。
そういうアウトドア派の2人だから、家の外に出て行くのが好きで好きでたまらないらしい。小さいころからキャンプだ川遊びだ旅行だと連れまわされ…今でも長期休みには強制連行される。
高校も卒業したからそろそろ勘弁してほしい…と思いつつも、万年新婚夫婦の2人の間に1人残されるのは嫌だと中3の妹に泣きつかれ、この休みも恒例の旅行に同行したんだ。
旅行自体は嫌いじゃない。色々な場所に行って色々な風景を楽しむのは好きなんだ。
親の影響か、山や森で自然と触れ合うのも好きだから今回のカヌーもすごく面白かった。パドルの扱いに慣れるまでには少し時間がかかったけど、流れの弱い大きな川をゆっくりと自分のスピードで動きまわるのはとても気持ちがよかった。
最初は、この年で未だに家族旅行ってどうなんだ…と思っていた気持ちも、終わってしまえばどこへやら。帰って来たおれはとても満足していた。また行きたいと思えるほどに。
「涼は車校行ってたんだよな。どうだった?」
おれがそう聞くと、窓の外を流れる風景に目をやっていた涼は思い出すのも嫌だと言わんばかりの顔をする。
「どうもこうも…短期間で詰め込まれるのも良し悪しだな」
「ふぅん」
「まぁ、でも、後は本免受けに行くだけだから、この夏にはどこへでも行けるぞ」
「って車ないだろ」
ニヤリと笑う涼に突っ込むとフンと鼻を鳴らすんだ。
「兄貴の借りる」
「借りるって…」
…一兄〔カズニイ〕、許してくれるのか?
そう思ってジッと見つめてたら、トンと胸を拳で叩かれた。
「いいんだよ。普段から電車ばっか使って全然乗ってないんだからな」
確かに涼の言う通り、社会人2年目の一兄 ―― 寒川 一志〔カンガワ カズシ〕は、O市の会社に電車通勤している。駅に比較的近いおれたちの地元からなら、結構どこへ行くにも電車の方が早かったりするんだ。
だから、めったに車に乗ることはないんけど…時々すごく大事そうに家の前の駐車スペースで車を洗ってるのを見たことがある。
そんな車を本当に借りられるのか心配なのはもちろん。もし、何かあったときに困るのは…弟である涼だ。おれにはすっごく優しいけど、実の弟にはすごく容赦がないんだ、一兄って。
だから、
「…ちゃんと借りるとき言った方がいいよ。勝手に使って怒られるの涼だよ」
って言ったら、涼は憮然とした表情で
「……わかってるよ……」
と呟いた。
『次は、藤間〔フジマ〕…藤間です。お降りの方はドアから手を離してお待ち下さい』
群青は次だから…そしたらダッシュだな。
聞こえた車内アナウンスに、近づく地獄を思い描いてため息を吐いた。
窓の外を流れる風景は徐々に遅くなり、間近にある建物の形がわかるようになってくる。けど、いつもより気持ち早い速度で駅構内に入った車両は本来の停車位置を越えそうになり、いきなり急ブレーキがかかった。
ガクンッ!!
「キャア!!」
小さな叫び声と1歩2歩とたたらを踏む足音が後ろから聞こえて振り向く。と、バランスを崩して背中から倒れそうになっている小さな女の子がいて、咄嗟に手を出していた。
「…だ、大丈夫ですか?」
おれが差し出した右腕にギュッと目を閉じて縮こまっていた彼女は、声をかけられて正気を取り戻す。
「わ!! す、すみません!!」
慌てて立ちあがった彼女は、おれの3分の2くらいしか身長がなく。近い位置にいたせいでほとんど天井を向くかのように真っ直ぐにおれを見た。とたん、口を半開きにしたまま動かなくなってしまった。
また怖がらせたかな…声、かけない方がよかったかも。
そう考えている間も、スキニータイプの紺色のジーンズに襟付きのチェック柄のチュニックを身に纏った彼女は、真っ黒な瞳をおれから外すことはなかった。
プシュ――――…
「由衣子、大丈夫か?」
「ゆっこ、いくわよ〜」
ドアが開いて、一緒にいたらしい2人に肩を叩かれハッとした彼女は、
「ありがとうございました! おかげで怪我しなくてすみました」
ニコリと微笑んでそう言うと足早に電車を降りて行った。
ルルルルルルル…
自然と視線が小さな背中を追った。
発車を知らせるベルが鳴り、開いたときと同じようにドアが閉まっても。改札へ向かって歩き出したその姿が遠く…そして視界から消えても。
おれは、彼女が出て行ったドアから目を離すことができなかった。
緩くウェーブした明るい髪。驚いてはいたけど、おれを怖がることのなかった瞳。……優しい微笑み。
そして、“由衣子”という名前。
脳裏に焼きついた記憶は何度も何度も繰り返し再生され、その度におれの胸の奥を熱くさせることになったんだ。
- continue -
2013-11-23
屑深星夜 2010.9.24完成