カシャッ…カシャッ、カシャッ…
「今日も綺麗だねぇ、エル」
「当たり前だ」
オレは、もう5年以上一緒に仕事をこなすカメラマンの洋二〔ヨウジ〕に鼻で笑って見せる。穏やかな笑顔を浮かべ続ける彼に、わざと伸ばしている後ろ髪を掬って指に絡めれば、
「あ、うん。そのままこっち見て…」
斜め上を向いたまま、視線を寄せるようにと促される。要望通りに、ちら、とそちらを見れば、洋二は「いいね〜」と満足げに頷いた。
オレは…絵瑠〔エル〕。この世に生まれて20年になるが、相変わらず怠惰でつまらない毎日を送っている。
人間界になら、オレが満足する“何か”があると思ったからこそ、人間に生まれ変わったというのに……。あのとき感じた高揚感は、嘘だったのだろうか?
“絵瑠”として生まれる前のオレは、魔界で暮らす悪魔だった。魔界を総べる王の長子。七大貴族の1つ、アスタロト卿バエル ―― それがオレの名だった。
昼も夜もない。1日中、闇が支配する世界で生きていたオレは、生まれたときから空虚だった。
艶やかな黒髪に、黒曜石の瞳。それに反するほど透き通った白い肌と、線の細い肢体。中性的な顔立ちに、血のような赤い唇。魔界一の美貌の持ち主で、強大な魔力を持つオレに傅かない者はいなかった。
屋敷へ戻ったオレは、召使いが恭しく開けたドアから赤絨毯の敷かれたホールに足を踏み入れた。
「お帰りなさいませ、バエル様」
「あぁ」
深くお辞儀をして迎える犬耳の生えた下僕 ―― カーシーに羽織っていた漆黒のコートを渡す。と、いつからそこにいたのか。陶酔した瞳を向けてくる男女が3人、オレの足元に跪いた。
「あぁ、今日もなんとお美しいのでしょう」
「さすが次期魔王と称される七大貴族のおひとりですわ」
「その麗しいお姿に、我々は目が離せませぬ…」
「「「どうか今宵も貴方様のお側に寄る栄誉をお与え下さい」」」
それは、生まれてから既に500年。正確な歳を数えることすら面倒になるほど長い間に嫌というほど聞かされ、耳にすることすら飽きていた言葉だった。やつらは、オレが顔を顰めたのに気付きもしないで手を伸ばしてくる。
いつもなら暇潰しに相手をしてやらないこともない。ただただ流れて行く日々はつまらないものであっても、求められ、身体を重ねている間はそれを忘れていられたからな。
だが、今日はそんな気分にはならなかった。
「うるさい! お前らは帰れ!」
「そんな…っ、バエル様…」
一喝して歩き出したオレの手を、ひとりの男に取られた。
許しもしていないのに無礼な振る舞いを!
オレは、その手を叩き落として睨み付ける。
「邪魔だ」
それ以上声も聞きたくもない。顔も見たくもない。と思ったオレは、土下座して謝るそいつ等を視界から追い出し、足早に自室へ向かったのだ。
ソファーに身を横たえていれば、お茶の用意をしたカーシーがノックの音と共に中へ入ってきた。
「本日はどちらにいらっしゃったのですか?」
慣れた手付きで紅茶を注ぎながら聞いてきたそれは、オレが屋敷の外に出かけたときには必ず問うてくる、言わば日課のようなものだ。ゆったりと身体を起こしたオレは、机に置かれた紅茶に手を伸ばしながら答えてやる。
「契約の丘だ」
「契約の丘!? まさか、どなたかと“契約”されたのですか!」
驚きに目を見開く下僕の前で、香りのよいそれをひと口味わう。そして、つい先ほどまで会っていた白き存在を脳裏に思い浮かべ、ニィ…っと唇を歪める。
「あぁ……天使とな」
「天使! 天使が悪魔に願い事とは……なんと珍しいことでしょう」
カーシーの言う通り。神の僕(しもべ)として天界で暮らす天使と、オレたち悪魔は相容れぬもの。
生まれ持った魔力を使って自らを呼び出した者の願いを叶える悪魔だが、その相手はほとんど人間だ。天使が“契約”を求めて来たという例は、過去に1度あったかないか……それくらい珍しいことだった。
悪魔召喚の魔法陣によって、陣の使用者と悪魔は契約の丘に転位させられる。
名の知れた悪魔だからこそオレの召喚魔方陣は相当数出回っている。だが、魔王に次ぐ魔力の持ち主であるオレを呼び出せる者などそうそういない。発動させられたとしても、相手に大した力がなければ拒否することも簡単だしな。
しかし、今日の召喚はオレを逃がすことなく、契約の丘へと連れ出した。久々の召喚だ。オレを呼び出すことに成功した力の持ち主がどんなやつなのか、じっくりと観察させてもらおうと周囲を見渡した瞬間、視界に入ってきた姿に目を見張った。
ここは、暗闇に覆われた魔界の端。静寂広がる荒れ果てた大地。にもかかわらず、光を感じさせる存在 ―― 白い白い翼を広げて立つ男は、オレの目にとても眩しく映る。
高い位置から見下ろしてくる深い藍色、鋭い光を帯びている。そいつはオレを認めても変わることはない。生まれてこのかたそんな意思の強い視線を浴びることなどなかったオレは、自然と笑みをこぼしていた。
「久々に面白かったぞ」
言いながら、ククク…と音を立てて笑った。思い出しただけで気分が高揚して止められなかったのだ。
「もう“契約”は果たされたのですか?」
「でなきゃ帰って来ていない」
「そっ、そうでございました。申し訳ありませんっ」
失言に頭を垂れるカーシーを見ても、機嫌のいいオレはそれ以上罵倒を浴びせる気などなく。
「……対価をもらった」
呟いてティーカップを置いたオレは、ゆらりとその場に立つ。
「人間に生まれ変わる権利をな」
バサリと広げた翼は純白に染まっていた。
「そ、そんなっ! バエル様はこの魔界の王者となる方ですのに…っ」
「そんなものに興味ない! オレはオレが楽しければそれでいいっ!!」
泣きついてきたカーシーに言い放てば、ピンと立っていたはずの耳を垂れ、身体を小さくする。その頭を優しく撫でてやりながら思い出す。人としてよみがえりたいと願う、天使のことを。
オレに対価を渡してまでその世界に戻りたいと言った男は、“オレ”という存在に惑わされることなく、己の意思を瞳に湛えていた。
それが望む場所 ―― 人間界。そこに、オレのこの空っぽの心を満たす“何か”があるような気がしたのだ。
しかし、長大な寿命を持つ悪魔の生は一度限り。その身を構築する魔力は魔界へ還り、同じ“もの”として生まれることはない。
そんな存在が人間になるにはやはり何かしらの無理があるようで、人として生まれ出たオレは、悪魔の頃の記憶を持ったままだった。
また、魔力を持っていなくとも、その本質は同じなのか。生まれながらに人を魅了する容姿は、己の親すらも惑した。ゆえに、全てオレの望むまま、全てオレの言うなりに事は運ぶ。それは、なんら悪魔のときと変わらぬ状態で……そんな毎日には10年で飽きた。
けれども、この形(なり)が求められることもあるようで。街中で撮られた写真が雑誌に載ったことでオレの存在が世間に広まり、あっという間にトップモデルにまで上り詰めた。
自分自身が仕事になるのは少し面白かったが、よくよく考えてみれば、結局は周囲がオレの美貌に酔いしれているだけのこと。一瞬にして気持ちの冷めたオレは、“人間”として働き金を稼ぐ…その外面だけを取り繕うために、モデルを続けていた。
今回の撮影は女性誌の特集分ということで、何着か衣装を着替えて写真を撮った。
最後の衣装はフロント部分を全開にし、胸と腹を見せる形。ブラックのロングジャケットから覗く白い素肌に周囲の人間の視線が集まる。
肌に纏わりつく欲を孕んだ視線。オレにとっては当たり前になりすぎたそれを浴びながら、カメラマンの求めるままに官能を煽るポーズを取った。
そんな中でひとり、オレを見ない男がいることに気がついた。
レフ板を掲げたそいつが視線を寄せる先は、モデルのオレではなくカメラを構える男。洋二との仕事はもう長いのだが、初めて見るそのアシスタントは身長180以上。あちこちはねている薄茶色の髪の毛を整えてさえやれば、十分モデルでもやっていけそうな顔とスタイルだった。
……面白い。
心に生まれたその気持ちにニヤリと笑ったオレは、撮影が終わった後すぐにそいつに話しかけた。
「お前、名前は?」
「……」
無言で寄せられた視線は不機嫌そうで、それもまたオレをワクワクさせる。
「名前は?」
「……知りたければ先に名乗るのが礼儀でしょう」
「そんなこと誰も言わなかったぞ?」
今まで聞かされたことのないことを告げた声は、身体の大きさに見合うほど低い。
母親も父親も親戚も使用人も。近所に住む者もはもちろん、同級生や教師も、全員オレに甘々で、叱られた記憶など一度もないのだ。世の中のルールを破ってもオレの不利になることはないし、オレに逆らえる者もいないのだ。反感を買うことがなければ、そんなものある意味がないだろう?
「覚えた方がいいです。礼儀知らずは反感を買います」
見下ろす茶色に高まる感情が、オレの身体をふるりと震わせる。
「オレに説教するやつなんて、はじめてだ……」
悪魔時代でもオレの振る舞いを正そうとするやつなど誰もいなかった。それなのに、こいつは……。
男にしてみれば、注意している相手がニコニコと嬉しそうに笑っているのだから、変に思うのが当たり前なのだろうか。呆れ半分で首を傾げる。
「どんな育ち方をしたんですか」
「それより名前は?」
「……だから…っ」
「そんな礼儀オレは知らないっ! お前の名前は?」
腕を掴んで詰め寄れば、周囲から「教えてやれよ」と声がかかる。レフ板を掲げていたような下っ端だ。それに逆らうことはできないと判断したんだろう。大きくため息をついた男は、真っ直ぐオレを見ると諦めたように口を開く。
「真崎 一史〔マサキ カズシ〕」
「一史…」
反芻しただけで心に広がる温かいものの正体がなんなのか、オレにはわからなかった。けれどもそれは勝手に頬を緩ませる。一史はそんなオレに聞いてくる。
「……貴方の名前は?」
「オレを知らないのか?」
「知っていますが、直接聞かなければ覚えません」
オレが礼儀を無視して名前を聞いたことに対する彼なりの反抗なのだろう。それもまた面白くて堪らず。何よりも、彼に名前を覚えてもらいという気持ちがオレを動かす。
「明日葉 絵瑠〔アシタバ エル〕だ」
今までになくゆっくりとした自己紹介。
「絵瑠さん、用事はそれだけですか? 俺、片付けの途中ですから……」
あっさりと呼ぶ声にゾクゾクと身体中を駆け巡る感覚。快感にも似たそれを与えておきながら、本人は素知らぬ顔で仕事に戻ろうとする。
……そこまでオレに興味のない人間は今までいなかった。
「お前、面白いな」
「……? 何言って……」
言うだけ言ってこっちを見ようともしない一史。それすらもオレを昂ぶらせることを知りもしない男の襟元を力任せに引っ張ったオレは、降りて来た唇にキスをした。
「お前、オレのものになれ」
触れるだけのそれに驚いていた一史は、オレの手を外しながら聞いてくる。
「……正気か?」
「あぁ。オレはいつでも真面目だぞ」
つまらない毎日を過ごしてきたが、オレは自分が納得していなければ動きはしない。嘘ではないという意味も込めて告げれば、一史は怒りの籠った鋭い視線を向けてくる。
「…お前のものになる気はない。そういう相手が欲しいなら他を探せ」
「断った!」
「当たり前だ」
このオレの誘いを断るのを“当たり前”だというこの男。
いつものオレなら激昂していたところだろうが、今まで使っていた敬語も忘れた低い声に湧き出して来るのは、ただ、面白いという感情だけ。
「またはじめてだ。……ますます面白い」
「面白いだと……?」
無意識に浮かべた妖艶な笑みは周囲の者の頬を染めたが、目の前の男は眉間に皺を寄せるだけ。
いま、そこに……手の届く場所に自分を高揚させるものがある。それはもしかしたら、オレが探していた“何か”かもしれない。
……手に、入れなければ。これを、手に入れなければ。
「決めた! お前がオレのものになるまで、お前と一緒にいる!」
「冗談だろ……?」
「カーシー!」
一史の抗議の声を無視して、オレは壁際に控えていた下僕 ―― カーシーに視線を向ける。
いまだにオレを慕うこいつは、ずっと隠せなかった犬耳を隠せるようしてまで人間界について来たのだ。記憶はあれども今のオレは悪魔ではなくただの人間だというのに……。
もの好きなやつだと思うが、オレの嗜好を知っているこいつが側にいるのはとても楽なのでありがたく使わせてもらってる。
「おれの荷物、一史の家に運んどけ」
「は、はい! かしこまりましたっ」
姿勢を正して足早に出て行く後ろ姿を眺めていたら、グイと肩を掴まれて一史の方を向かされる。
「…俺に拒否権はないのか」
「ない」
即答してやったせいで二の句を告げない相手に肩を竦めてみせる。
「あっても、賛成多数でオレの勝ちだ」
その言葉に周囲を見渡す一史は、知るのだ。ここにいるお前以外の人間は、オレの味方なんだと言うことを。一史が視線を向けるスタッフたちは「いいじゃないか」と羨ましげな表情を見せる。
「エルと暮らせるなんてすごいじゃないか」
カメラマンの洋二にもニコニコ顔でそう言われ、一史は複雑な顔をした。
本当にオレの言う通り。賛成多数のこの状況……オレの周りでは至って普通な光景だが、彼にとっては違うのだろう。まだ残ってるらしい納得できない気持ちが彼に問わせる。
「おかしいだろ?」
「それでも許されるのがオレなの」
「俺は許さない」
刃物のような鋭利な視線に見つめられ、心地よさに身体が震える。
「……だからお前は面白い」
オレの呟きを聞く間もなく傍観していたスタッフたちに囲まれた一史は、全員によって説得されている。始終嫌そうに聞いていたが、大きくため息を吐いた後、チラリとオレを見た。
「……ベッドはないぞ」
「お前と一緒に寝るから安心しろ」
「お前は床だ」
「床! それもまたはじめてで楽しそうだな?」
「………」
自然、顔の緩むオレに、一史はひとり肩を落とすのだった。
- continue -
2014-02-10
オレ様ってどんな感じ…? と悩んだのはいい思い出。
屑深星夜 2011.5.14完成