悪魔の涙1 2

悪魔の涙1 2


「…常識で考えろ。この部屋のどこにそんな荷物が入る」
 こめかみを押さえながら言う一史に、オレは肩を竦める。


 この部屋と言うのはもちろん、一史が住む部屋のことだ。
 オレの第一印象では、狭くて暗くて汚い。2階建てアパートの上階で、角部屋とはいえ……1LDKのそこはオレの知識の中にはない場所だった。
 オレの家は、都内の高級と呼ばれる類のマンションだ。
 コンピュータソフトウェア会社を一代で成功させた父親は、旧財閥であるMグループ社長の三女である母と結婚したことで、不動の地位を手に入れた。
 そんな両親の持ち物である高層マンションの1フロアで、カーシーと共に暮らしているオレだ。幼い頃も母親の持ち物である豪邸で住んでいたのだから、仕方ないだろう? 引越し屋の大型トラック1台を使って、衣類だけじゃない。愛用の寝具や家具などを持ってきてしまっても。


「もっと大きいと思ったんだ」
 考えてもいなかった、と素直に告げれば、はぁ…と息を吐く音が聞こえる。
「自分を基準に考えるな。持ち込むのは最低限の着替えだけだ」
「えー」
「……少しは遠慮を覚えろ」
 せっかく持って来させたのに…と不満の声を上げれば、一史は座らせた目でオレを睨んでくる。

「そうすればオレのものになるか?」

「俺の答え変わらない……が、しなければ今すぐにでも追い返す」

 誰もが言いなりになる笑みを浮かべながら聞いても、返ってくるのは否定の言葉。あぁ、思い通りにならないこの男は……本当に面白い。
「わかった」
オレは、頬に刻む笑みを深めて頷いた。


 いくら常識の範囲外にいるオレでも、目の前のアパートに持ってきた荷物が入らないことくらいは分かったので、一史の言うようにスーツケース1つ分の衣類以外はカーシーに命令して持って帰らせた。
 今までの生活水準が保てないということは明らかだ。だが、そんなことよりもこの男との生活がどんなものになるのか。オレは、それが楽しみでならなかった。


 部屋の中は、オレにとってはすごく珍しい場所だった。
 まず、テレビがない。外からの情報を得るのは、古ぼけたラジオと新聞かららしい。
 テーブルは低く、小さな折りたたみのものだけ。だから、椅子もなければソファーもない。むき出しのフローリングにそのまま腰を下ろすようだった。
 もちろんベッドもなく。きっちりと折りたたまれた布団が1つ角に寄せてある。
 そして、季節柄だろうか。これまた年季の入った扇風機がベランダへとつながる窓の前に鎮座している。
 また、左の壁際に置かれた本棚には写真に関する本が詰まっていた。
 生活空間はそのLDK部分のみで、もうひとつの部屋は、彼にとって重要な位置を占める写真のために使われているようだ。暗室代わりにも使っているそうで、見るな、入るな、と言われたのでどんな風になっているのかまではわからなかった。

 そんな質素な空間を彩る唯一のものが、写真だ。

 自分で撮ったものなのだろう。本棚の隣に立てかけられた1m四方のコルクボードには、たくさんの笑顔の写真が貼られていた。
 それは、真面目で堅そうで無愛想なこの男に、こんな写真が撮れるのかと思うほど鮮やかで。オレの周囲にいる人間が決して見せたことのない光溢れるその表情に釘づけになった。

 そして……こんな写真を撮る一史に、益々興味が湧いたんだ。


 その夜。必要最低限の衣類に寝間着を入れ忘れたオレは、一史に服を借りた。
 丈の長いグレーのスウェットに、ダボダボの白いTシャツ。ヨレヨレになったその衣服の感触もまた初めてで面白かった。
 オレと一史は、今、部屋に広げられた布団の前で言い合いをしていた。

 議題は…オレの寝る場所、だ。

 一史の部屋には布団がひとり分しかない。となれば、そこで“一緒に寝る”のが1番の解決法だと思うのだが……。
「待て」
 色の違うスウェットに青色のプリントTシャツを着た一史は、右手でオレの言葉を制した。
「お前の“一緒に寝る”の意味は…?」

「セックスする」

 恐る恐る聞いてきたことに対して、オレは何の迷いもなく答えた。
 オレにとってセックスは、つまらない毎日の中の暇つぶしの1つだ。これは、悪魔だった頃から変わらない。
 オレに触れたいと願う者がいれば気が向いたときに相手をしてやる。肌を合わせ、快感を追うあの行為の最中だけは、自分の中が空っぽであることを忘れられる気がするからだ。
 きっと予想通りだったのだろう。額を押さえた一史は、長いため息を吐く。
「床で寝ろ」
 つまりそれは“一緒に寝ない”ということで……。
 今までオレと寝ることを拒むやつなんかいなかったのに、どうして一史が嫌がるのかわからなかったオレは、率直に聞く。
「何で“一緒に寝ない”んだ?」
 一史は一瞬だけ答えに悩んだ顔をしたが、オレを真正面から見据えて口を開く。
「俺はお前に興味がない」
「オレはお前に興味がある」
「互いの同意がなければしていいことじゃない。同意がなければただの暴力だ」
 ……なるほど。そう言えばオレも、気が乗らないときは相手をしなかった。それと似たようなものということか。
 オレがいいと言っても、一史が嫌ならすることではない。でもそれは、裏を返せば……。
「お前がその気になればいいということだな?」
 …そういうことだろう? と視線を送れば、スタジオで見せたのと同じ鋭い視線に射抜かれる。
「残念だがそうはならない」
 変わらずにオレを拒否し続けるその瞳に、やはり“面白い”と思うと同時にゾクゾクと身体震えた。

 この目だ。これが…オレを高揚させる。

 何もかも、望めばすぐに手に入った。
 けれど、この男は違う。簡単には手に入りそうもない。
 それもまた……オレを楽しませる。

 今までの人生ではじめての感覚だ。すぐに終わらせてしまってはもったいない。少しでも長く味わっていたい。

 オレは、微笑みを浮かべながら首を傾げる。
「……じゃあ、セックスしなければいいんだろう? 床で寝るのも面白そうだが、こんなに堅くては寝れる気がしないぞ」
「……」
「布団持って来させなかったのはお前じゃないか?」
 ここまで言ってやっと、だ。
「……わかった」
諦めのため息と共に、一史が頷いた。
「お前はそっち向きに寝ろ。いいな」
「あぁ」
 示されたのは本棚がある方向。返事をしたオレは、ゴソゴソと布団に入って横になる。
 目の前に見える本棚の中の写真雑誌の背表紙を見ていると、背中に一史の体温が近づいた。

 ドクン

 1度だけ、心臓が大きな音を立てて跳ねた。
 触れそうで触れない距離。それでも伝わってくる熱がそうさせたのだろう、と何故か思った。

 あぁ……直接、触れたい。

「…変なことをしてみろ。蹴り出すぞ」

 ……オレは何も言っていない。ましてや動いてもいないのに、先に釘をさされて苦笑する。
「わかった」
 オレは、そのまま大人しく目を閉じた。


「……きろ…起きろ。絵瑠!」
「…ん?」
 耳に届いた声にパチリと目を開ければ、目の前は青一色。昨夜、最後に見ていた風景は雑誌の背表紙だったはずなのに……と、寝ぼけた頭で考えていたら。
「離せ」
 パチンと右手の甲に痛みを感じて自分の状況に気がついた。

 いつの間にかオレは、一史の背中に抱きついていた。

「あぁ…」
 拘束を解くと、一史は身体を起こして布団から出て行く。その後姿を目で追いながらも、神経は腕に残る温度に集中している。

 昨日、触れてみたいと思った熱が眠りの中とはいえこの手にあった。

 胸の奥から湧き出す感情を何というのか、オレにはわからなかった。しかしそれは、段々と消えていく一史の体温を逃したくないと、オレに自身の身体を抱きしめさせた。


 再びうとうとしていたオレが叩き起こされたのは、それから30分後だった。
 いつの間にか用意されていた朝食が小さな机に並べられている。ご飯に豆腐とネギの味噌汁。ミニトマトとレタスの乗った皿には、ケチャップのかかったふわふわのオムレツ…。ひとり暮らしをする者にとっては当たり前のレベルなのかもしれないが、一史がこれを作ったということに驚いた。
 味は薄味で、オレ好み。どれもおいしいと思ったが、特に気に入ったのはオムレツだ。外側は、焼き色がつかない程度の綺麗な黄色。内側はとろとろで熱々。ほんのり香るバターがまた食欲をそそった。

 お腹も満たされてカチャリと箸を置けば、先に食べ終えてお茶を飲んでいた一史がオレの皿を指差す。
「出されたものは全部食べろ」
 そこには赤いミニトマトが1つ。あえて残していたにも関わらず、それを指摘されて自然と表情が歪む。
「トマトは嫌いだ」
「ケチャップは食べたくせにか」
「種のところが嫌いなんだよ!」
 味が嫌いなわけではない。パスタやピザ、スープなどで使われる分には食べられる。ただ、あの生のトマトに必ずつきもののジュルジュルとした種の部分。それが気持ち悪くて食べられないのだ。
「食べないなら今後、お前の食事は作らない」
「嫌だ!」
 湯呑を置いて告げられたその言葉に、そっぽを向いていたオレは咄嗟にそう叫んでいた。
 いつも、カーシーが用意してくれるものもオレの嗜好に合わせてあって美味い。が、今日の朝食はそれ以上にオレの舌を満足させた。そんな一史の料理がもう食べられないのは嫌だったのだ。けれど、嫌いなトマトを食べなければいけないのも嫌で……。
「どっちだ」
「どっちも嫌だ!」
「……子どもか、お前は」
 口を尖らせてふて腐れていると、長い長いため息を吐いた一史がオレの皿に乗ったミニトマトを手に取った。
「口、開けろ」
「………」
 指先で摘まれた赤いそれを目の前に持ってこられ、しばらく悩んだ。けれど、一史の手から食べさせてもらえるという状況がオレの気分を少し上昇させ、鳥の雛が餌を強請るように上を向いて口を開いた。
 ポン、と放り込まれたとき、少し冷たい指先が唇に触れていく。
 その感覚を反芻しているうちに、咀嚼されたミニトマトはオレの腹の中に納まった。口の中に広がった少々の酸味とそれを凌駕する強い甘み。それは、嫌っていたはずのトマトのイメージとは全く違い、とてもおいしかった。

「…おいしい」

「新鮮だしな」
 素直に告げれば鼻で笑った一史はそう言って、窓の外の小さなベランダに視線をやった。カーテンで少ししか見えないが、そこには幾つかのプランターが置かれていて、その1つにミニトマトが植わっていた。
「一史が作ってるのか?」
「野菜は高いからな」
 その言葉で作った方が安いと言うことを知ったオレが、興味津々で菜園の方を眺めていると、一史の声が耳に届く。
「偏食はやめろ」
「一史がさっきみたいに食べさせてくれるなら考える」
 クルリと振り向いて、真っ直ぐにオレを見つめてくる瞳に微笑みかければ、
「……手のかかる子どもだな」
呆れたため息と共にそう言った一史は、机の上の皿を重ね、後片付けをはじめたのだった。

- continue -

2014-02-10

トマト嫌いだけど、オムレツにはケチャップかかってないと怒るバエル様です。


屑深星夜 2011.5.14完成