悪魔の涙1 4

悪魔の涙1 4


「傷が痛みますか? バエル様」
 人が5人は寝られそうなほど大きなベッドの真ん中でうつ伏せになっていたら、カーシーが心配そうに覗きこんできた。何をするでもなくボーッと遠くを見つめたまま動きを見せなかったからだろう。
 オレは、そのままの体勢で視線をちらりと黒髪の下僕にやって、僅かに首を振る。
「……いや、大丈夫だ」
「あぁ…もう、あのときは驚きました。急に一史殿に呼び出されてそちらへ行きましたら、無言でバエル様を追い出すのですから。……麗しのお身体に傷をつけておいて何の手当てもせずに放り出すとは、どういう神経しているのでしょうか!!」
 …この5日間で何度聞かされただろう。聞き飽きた愚痴に顔をしかめてもカーシーの言葉は止まらない。
 しかし、悪いのはオレだ。
「…いい」
「ですが!」
「いいと言っている!」
「……はい」
 しゅんと項垂れるカーシーを見ながら、オレは長い長いため息を吐いた。


 あの日、荷物ごと一史の部屋から追い出されたオレは、自分のマンションに戻って来ていた。
 カーシーが迎えに来たときも流れっぱなしだった涙は…1日で枯れた。今では、あのときどうやって泣いていたのかもわからないくらいだ。
 叩かれた頬の腫れも引いた。無理矢理開かされた場所の傷は酷かったがもう痛むことはなく完治まで薬を塗っているだけ。…だが。
 怒りに染まった瞳が今も、残像のように目に焼きついて。
 散々オレを痛めつけた低い声も、木霊のように耳に残って。
 ……ずっとオレの胸を苛んでいた。


 次の日。鬱々と沈み込みそうな心を奮い立たせ、仕事に向かった。
 流石にこれ以上休むことなどできなかったし……この日に予定されているファッション雑誌用の撮影は、洋二が担当のはずだからだ。
 あれだけ酷いことをして、一史を傷つけても。どれだけ、己の身体が傷つけられても。

 それでも会いたい。

 …こんなことを考えるようになるなんて、誰が想像しただろうか。
 誰もがかしづいた悪魔…バエルが。今も思い通りにならないことなどないトップモデル、エルがだ。
 どこかに滑稽だと笑う自分がいた。けれども、それが気にならないほど……オレは一史に恋い焦がれていた。


 スタジオに入れば、バタバタと準備に追われるスタッフたちが目に飛び込んできた。自然と探した瞳が、背の高い男の後ろ姿を捕えた。それだけで嬉しさが胸に広がった。
 たとえ振り返らなくとも。その目が自分を映さないとしても。姿が見られるくらい近くにいる。そのことに、驚くほど幸せを感じていた。
 一史は黙々と撮影の準備をこなしている。オレが来たことを知っているだろうが、少しもこちらを見なかった。
 あいつが見つめる先は、やはり前と変わらない。密かに想いを寄せていた叔父 ―― 洋二。
 スタジオに来たオレに気づいた洋二は一瞬だけ気まずい表情を見せたが、何事もなかったかのようにあいさつを交わし、以降は以前と変わらない振る舞い方だった。
 しかし、一史に対する態度だけは別だ。仕事のことで言葉は交わしても、真っ直ぐ一史を見ることはない。笑顔も引きつり、必要以上に近づかない。どうしても側にいかなければならない場合も、手が届かない程度の距離がある。立っているときの姿勢も…明らかに逃げ腰だ。
 家族ぐるみで世話するほど可愛がっていたはずなのに。
 あの告白は、洋二にとってそれほどのものだったのだ、と洋二の様子から窺い知れた。
 ……それでも、一史は見つめ続ける。
 申し訳なさそうに眉尻を下げ。切なげに細めた目の奥には、やはり熱い炎が灯っているように見える。真っ直ぐに真っ直ぐに見つめる視線は、決して届かずとも追い続ける。その瞳にオレは顔をしかめた。

 胸が、痛い。

 己のしでかした不始末で変わってしまった2人の関係。

―― ……幸せならそれでいい。

 あの日そう言った一史の気持ちが、今になってわかった。
 今の一史を見ているのは、辛くて、苦しくて……たまらなかった。


 雑誌の撮影の季節感は現実とは真反対だ。これから夏真っ盛りに入るというのに、着ているのは冬物。
 チェックスラックスに白のハイネックインナー。その上にネイビーのPコートを羽織り、更に赤と黄色のラインが映えるグレーのマフラー。ガンガンにクーラーのきいた部屋とはいえ、照明の熱もあって結構暑い。
 数枚撮ったところでシャッターを切る洋二の手が止まった。
「エル、笑えるかい?」
「笑ってるつもりだが…?」
 いつものように、笑みを作っているつもりだった。しかし、洋二は首を振るばかり。
 スタイリストを呼び、鏡を覗けば……切なげに顔を歪めた自分しかいなかった。自分の顔の筋肉がおかしくなったのかと、口を開いたり頬を膨らませたり。それは、全く問題なく表情を変えることができた。
 ただ、笑顔を作ろうとしたときだけ、オレの唇も頬も決して反応しなかった。
「今日のエルは今まで以上に魅力を感じるんだけど、表紙は笑顔でって指定が入ってるんだよなぁ……」
 困った顔をする洋二の後ろから、スタッフたちが口を開く。
「前よりずっと色っぽくて素敵です!」
「憂いを秘めたような瞳がまた、たまらないですよ」
「苦しげに眇められた眉見てると、思わず抱き締めてあげたくなります!!」
「手の届かない場所にいたエルさんが、すごく身近に感じられるようになった気がします」

「…あぁ〜。天上の住人が、やっと人間になった…って感じかな?」

「あ、それです!」
 洋二の例えに、他の者たちが次々に同意する。元悪魔に“天上の住人”はないだろう、と思いながらも、オレは何故か納得していた。
 あれほど空虚でつまらないと思っていた日々の暮らしが、どうだ。一史と出会ってからは、楽しくて、面白くてたまらなくて。……今は、苦しくて辛い気持が先に立つが、それでも自分の中に芽生えた新しい感情は、味気なかった周囲の風景を鮮やかに染めた。

 あぁ、オレは“人間”になったんだ。

 20年経ってようやく実感できた思いは、胸の痛みを少しだけ和らげてくれたような気がした。


 あれから何回か衣装を変え、無事に撮影を終えた。
 表紙の件は洋二が編集と掛け合ってくれることになりなんとかなったのだが、このまま笑えない状態が続けばいずれモデルとしてやっていけなくなる。……そう考えただけで嫌な気持ちになった。
 こうなってはじめて気づいたのだが…オレはこの仕事が好きだったらしい。
 ただ“人間”の外面を保つためだけに続けていたはずだったのに、一体いつからこうなっていたのだろうか。……案外、自分の気持ちがわかっていなかっただけで、オレはとっくに“人間”だったのかもしれない。
 仕事を失わないためにまずはどうしたらいいか。考えながら与えられていた控室へ向かっていたら、急に横から伸びて来た手に引っ張られた。抵抗する間もなく、目的とは別の部屋に引きずり込まれる。

 カチッ

 ドアが閉まる音の後に耳に届いたそれは、オレの頭に警鐘を鳴らした。逃げなければ、と思ったが、既に両手首を背中で捕えられ、さっきまで自由だったはずの口は、荒れた手指によって押さえられていた。
 はぁ、はぁ、と耳元に当たる荒い息に鳥肌が立った。
 熱い…息。欲望の滲むそれには覚えがある。気分が乗る、乗らないはあったが…今まで、それを嫌だと感じることはなかった。それなのに、なんだ? この嫌悪感は。
 足元から全身に広がる震えは、決して寒さのせいじゃない。耳に吹き込まれる吐息が、気持ち悪くてたまらなかった。
「あぁ、エル……おれの、エル……」
 そいつは嬉しそうに囁くと、オレの首元に顔を寄せて匂いを嗅いでくる。
「…っ、やめ、ろ!! っ、うぅ―――っ!!」
 一瞬だけ手が外された隙に叫んだが、背後の男は何も反応しない。
 おかしい。今までなら、オレの言葉に従わない者などいなかったはずだ。一史は別だが、他の者はなんら反抗も示さずに思い通りに動かせた。それなのに……。
 薄いハンカチのようなものを口に詰められ、乱暴に床の上にうつ伏せにされる。逃げる間もなく馬乗りになった男は、更に細長い布で猿ぐつわをするように口を縛った。
「うんっ、うぁうぉ――――――っ!!」
 オレのくぐもった声は響かず、狭い部屋に散って行く。すると、羽織っていたジャケットを無理矢理脱がされ、シャツを着た腕を後ろでキッチリと縛られた。
 く、そ…!!
 背後にいるため、はっきりと確認できたわけじゃない。けれども明らかにオレよりも背の高い大柄の男だ。力では敵わないとわかっていても、身体を冷たい床にぶつけながら精一杯の力でもがいた。
「だめだよ、暴れちゃ……キレイな身体に傷がつくじゃないか」
 恍惚とした声が上から降ってきたと思えば、ゴロリと身体の向きを変えられる。

 っ!! この、男……。

 見覚えがあった。
 20代という年齢の割に染められていない真っ黒い髪は目にかかりそうなほど伸ばされ。一昔前の若者を思い起こさせる風貌……一史と同じ、洋二のアシスタントのひとりだ。
 名前は覚えていないが、こいつがアシスタントになったのはオレが高校を卒業したころだから…2年と少し前のはず。……その間に、何度か求められて身体を許したことがあった。
 下半身に腰を落とされ、僅かに身動ぎはできても抜け出ることは叶わない。興奮して朱の走る頬にネジの外れたような狂気の滲む目は、それだけでオレに恐怖感を与える。
「エル…今日、いつもよりもキレイで……おれ、我慢できなかったよ」
「んぅう!!」
「一体何があったの…?」
 両手の平に頬を包まれ、無理矢理視線を合わされる。瞬間、男の表情が冷たいものに変わった。

「もしかして……一史と寝た?」

 ザッと音を立てて血の気が引いた。と、同時にパニックに陥る。
 今まで、自分の言うことを聞かない者などいなかったのだ。万が一いたとしても、悪魔だったころは持って生まれた強大な魔力があったから、全く気にしていなかった。
 だが、今は違う。

 オレはただの人間で、何の力もない。

 急に目の前に突きつけられた現実は、ガタガタとオレの身体を震わせた。
 寝た、なんて答えたらどうなるか。……なんて考える前に、恐怖に首が勝手に左右に振れる。
「うぅー!!」
「そう、よかった。おれのエルがあいつのものにもなってたら…おれ、気が狂いそうだよ」
 ニコリと笑った男は、オレが身につけている紺色のシャツに手を伸ばし、上から1つずつボタンを外していく。ゆっくりゆっくり前を開かれ、露わになった上半身に嬉々とした表情を見せる。興奮に潤んだその瞳はオレの肌に鳥肌を立てるだけ…。なのに、そこに生暖かい手と頬を寄せられて。
「…っ!!」
 ゾワリ、と這い上がる悪寒に息を飲んだ。
「あぁ、この肌……ずっと、ずっと、触りたかったんだ…」
 粘着性のある手の平の感触に冷たい汗が流れはじめるが、こいつは悦に入った表情で楽しんでいる。嫌で嫌で堪らずに上半身を起こすように動いても、腰を押さえられていてはどうにもならない。
 しかし、急に圧力が軽くなった。相手がオレの腹にまで顔を寄せるものだから、下半身もそれに合わせてずれたのだ。
 咄嗟に右膝で蹴り上げる。
「おっと」
「うぅぅぅ…」
 グッと左腕でガードされ、オレの僅かな反撃は空振りに終わった。
 再び腰に乗り上げられて簡単に動くことはできなくなったが、大人しくなんかしていられない。全身でもがきはじめたオレに、唇の端を吊り上げて見せる。細められた瞼の奥に光る目は、決して笑ってはいなかった。

「お行儀の悪い足だね……少し、お仕置きしちゃおうかなぁー?」

 パァンッ

 頬を張られて、浮かせていた頭が固い床に打ち付けられる。目を閉じて痛みに耐えながらもまだ抵抗を続ければ、2度、3度と連続で叩かれ、視界がチカチカと明滅した。
「うーん…こうやっていじめるのも楽しいけど、エルのキレイな顔にあんまり傷を作りたくないしなぁ……大人しくなるように縛っちゃおうか」
 物騒な言葉にも反応できないままベルトを外され、下着ごとスラックスを抜かれる。そして、膝を立てられたオレは、両足とも腿と脛を纏めるようにしてロープで縛られた。
 一仕事して満足したらしい男は、ほんの少し離れた位置からこちらを見下ろす。その瞳で舐め回すように見られただけで、身体が勝手にカタカタと震え出す。髪から顔、首、肩…と下がっていった視線が隠すこともできないオレの中心と固く閉じた蕾に到達したとたん、ゴクリと唾を飲んだのがわかった。
「…エルったら、こんな姿も似合うんだね……あぁ、もう、限界だよ…」
 言葉通り、男の下半身は大きく盛り上がっていた。カバリと覆い被さってきた男に唇と手で全身をまさぐられる。
「エル、エルぅ…」
「…ぃっ、うぅ…」
 熱い息で名を呼ばれても嫌悪感以外感じられなくて、微かに零れる声にはほんの少しの甘さも混じらない。
 快楽に慣れていたこの身体がだ。自身を握られ、扱きあげられても、何の反応も見せないほどこの行為は苦痛でしかなかった。
「エルも一緒に楽しめないのは残念だけど…」
 興奮で荒い息を繰り返す男の指が、秘部に伸びる。唾液で濡らされた冷たいそれが、固く閉じたままの場所にぐっ、と差し込まれた。

「うぁぅ―――――――――っ!!!!」

 バアァンッ!!!

 けたたましい音を立てて開け放たれた扉を見れば、肩で息をする一史が立っていた。汗だくになった彼の顔は怒りに染まり、呆然としていたオレの身体も、怖さに思わず力が入る。

「……何をしている?」

「え? あ…」
 勢いに気圧されて何も語れない男に、1歩、また1歩と近づく一史は一段と鋭い視線で射抜く。
「合意のない性行為は犯罪だと知ってるか…?」
「ひっ…ご、ごめんなさい、ごめんなさい…」
 オレから飛び退いて小さくなった男は、今にも泣き出しそうだ。それに更に追い討ちをかける。
「出るとこ出たら自分がどうなるか、よく考えて行動するんだな」
 男は一気に青ざめると、できるだけ一史から遠い場所を通って、バタバタと部屋を出ていった。


「大丈夫か?」
 心配そうな顔が覗き込んできても、オレはまだ目の前にいる人物が本物とは思えずにいた。
 ……あれだけ酷いことをして怒らせたのに、あり得ないだろう?
 しかし、オレの身体を起こした熱は正に現実で。
「……っん、…一、史…?」
 背後から猿ぐつわを外してくれる一史を盗み見ながら問えば、あぁ、と低い声が返ってきた。

 ……一史だ。本物の…一史なんだ。

 まだ実感が湧いていない胸の内に言い聞かせているうちに、手足の拘束も解かれる。自由になったオレの前に回り、シャツのボタンを閉めていく一史の顔が近い。
「な、んで…? ここに?」

「……お前を探していた」

 茶色の瞳に映ったオレの頬に枯れた筈の涙が伝うのが見えた。
 困った顔をした一史は小さく息を吐くと、その腕でオレを抱き締めてくれる。後頭部にそえられた手が彼の肩口にオレの顔を押し付け、もう片方の手は子どもをあやすようにポンポンと背を叩く。
「…っ……うっ、うぅぅ〜…」
 流れる涙は激しさを増し、意思とは関係なく勝手に声が飛び出しはじめる。そんなオレを、一史はただただ静かに抱いていてくれたのだった。

- continue -

2014-02-10

4話目…描写に苦労しました……。


屑深星夜 2011.5.14完成