トン、と何階もの高さから飛んだとは思えない軽さで降り立った凍鉉は、つい先ほど走行を始めた2台の車の方へ顔を向ける。
「逃がさぬ……」
手にしていた銀の針ではなく、新たに氷で作り出した針を左手に持ち、タイヤに向かって投げようとしたその時であった。
天(そら)を切るとでも言えようか。何者にも拒むことのできない美しい笛の音が耳に飛び込んで来る。それは聴く者の心を我が者とするに十分な魅力を持つ旋律。
これは……っ!?
視覚を持たない凍鉉の耳は人よりも過敏だ。だからこそ、その音の危険を察知できたのだが、鋭いからこそ逃れられないこともある。
「な、んだこれは……身体が動かんっ!」
誰よりも先に笛の音の影響を受けた凍弦は、この場から離れて行った自動車の急ブレーキ音とそれが何かにぶつかって大破する音をただただ聞くことしかできなかった。
「音音(ねおん)ちゃん……音音ちゃん、どこ?」
「首も動かせねぇ状態でわかるわけねぇだろ…っと」
以前この金縛りから逃れたことがある冬継は、音色を奏でる本人がどこにいるか把握できていなかったが、とりあえず己の能力を使って笛を吹くのを止めさせようと考えてた。自分たちの雇い主の様子を確かめ、守らなければならない以上、動けないままでいるわけにはいかないのだ。
音音がここにいる以上、思い浮かぶ人物は1人。彼がこの場にいるとなると、急がなければ取り返しがつかなくなる。
……もう、遅いかもしんねぇけどな。
「その通りです。貴方の依頼主はもうこの世にはいません」
「やっぱりか……」
「庵ちゃ、ん…っ」
背後から聞こえた声に、千景は動かない身体を無理やりに振り向かせようとする。それにチラと視線を寄せた庵は、ナイフを握った右手を軽く上げる。
「音音。もう少しだけお願いします」
マンションの屋上で頷く気配を感じた凍鉉だが、わかっても身体が動かないのではどうしようもない。冬継のように、能力まで止められたわけではないことを知っていたなら何かできたのかもしれないが、その考えに至る前に己の眼前に立った人間によって意識を持って行かれてしまう。
「貴方の獲物は僕がいただきましたよ? 『凍星』」
「何だと!? そなた、何者だ!」
「『白狐』」
それは『凍星』と共に世間に知られた殺し屋の名だ。思わず息を飲むと、目の前の男が微笑んだのがわかる。
「またどこかでお会いできましたら。今度は手合せ願いたいものですね」
「……他人の身体の自由を奪っておいて何を言うか…っ!」
「申し訳ありません。今日ばかりは手段を選んでいられなかったのですよ」
そう言った庵は、左手にぶら下げていたアタッシュケースをトンと地面に置く。
「500万ここにあります。今日の無礼はこちらで許してはいただけませんか?」
その金額は、この依頼完了させた後でグロシール男爵夫人から届くはずの半金と同じもの。
「まさか……」
「えぇ。依頼の完了を空の上から見ていることでしょう」
まるで自分の考えを読まれたように肯定した相手から聞かされた言葉は、依頼主がもうこの世にはいないということを知らせていた。
相手が何故そうしたか、ふと思いついたことが1つある。
「……事実を知れば、貴方もきっと同じことをしたでしょうね」
「……っ!!」
凍弦の想像が間違いではなかったようだ。
グロシール男爵夫人は、『凍星』だけでなく『白狐』にも夫の殺害を依頼していたのだ。
それは殺し屋としてのプライドを傷つけられたも同じ。それは、依頼主への報復に発展してもおかしくはない。
「では」
「ハグ。庵ちゃん、音音ちゃん、ハグさせて」
「待て!」
冬継の制止を聞くことなく、庵はその場から消えてしまう。笛の音もいつの間にか止んでおり、身体に自由が戻ってきていた。
「あぁあぁ……こっちの仕事滅茶苦茶にしていきやがって……」
額を押さえて肩を落とす冬継と、両手をわきわきさせながら庵と音音を探す千景。そんな2人に背を向けたまま立ち尽くしていた凍鉉だったが、己の足元に置かれたアタッシュケースを乗り越えて歩き出す。
「おい、あんた。それ持ってかねぇのか?」
「……欲しければくれてやる。依頼が果たされておらぬのにもらえるわけがなかろう……っ!」
ギリリと歯噛みする音が冬継の耳にも届き、ほぼ無表情であった『凍星』にも感情があったのだとわかる。
「『白狐』……覚えていろ……」
残された低い呟きは、冷気を残して宙に溶ける。
金の礼を言う間もなく姿を消した凍鉉の様子に楽しい予感しかしない冬継は、置いてあったケースをひょいと持ち上げながらニヤニヤした笑みを浮かべる。
これは、その年初めて氷の結晶が舞った日のことであった。
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2013-12-12
我が子、凍鉉(いづる)の4話目。
屑深星夜 2013.11.28完成