散歩のお供である蝙蝠傘を左手でクルクルと回しながら、夜の街を歩く。
行きつけの店に行く気分でもないし、ここ200年避け続けているワインはもちろん、他の洋酒を飲む気分でもない。
こういう時は、知る人ぞ知るというような裏路地でひっそりと営業している小さな居酒屋がいい。
どこへ行くとも決めていなかったサンは通りかかった路地に入り込み、暗いそこを進んでいく。しかしその道に店らしきものはなかったため、人ひとりしか通れないビルとビルの隙間に入り込んで隣の路地へと出る。と、年季の入った赤提灯がかかった店が目に入った。破れかかったそれから店の名前は把握できなかったが、料理と酒の匂いはする。
……ここにするか。
ガラリ、と音を立てて引き戸を開けたサンは、木製の玉すだれを手で避けながら店内に入った。
「らっしゃい」
迎えた声は店と同じように年季の入った男のもの。ねじりハチマキをしたいかにも頑固そうな60代の老父が包丁を握っていた。
先客は1人。サングラスをかけ、同じような黒いコートを着た男がカウンター席に座ってグラス入った冷酒を飲んでいる。
サンは、彼との間に1席開けて座り、店主が無言で出したおしぼりで手を拭きながら口を開く。
「オヤジ、熱燗頼む」
「はいよ」
つきだしを出しながら頷く店主から視線を動かすと、静かに冷酒の入ったマスを煽る姿が目に入った。彼の目の前には既に空になったつきだしの皿と、2、3切れ残った刺身皿と食べかけの魚の干物が残った皿。酔っているようには全く見えなかったが、少なくとも1時間近くはそこにいるだろうと思われた。
「ボウズ、これも食うか?」
酒は飲みたいが食欲はないサンがそう問うと、一瞬の後に男がこちらを向く。これまで見えていなかった顔の左半分に、額から頬に渡るほど大きな傷があるのを見て少し驚いたが、サングラスの向こう側の瞳に向かってニッと笑いかける。
「食欲ねぇからやるよ」
ボウズが己のことだと思い当たっていなかった彼は、つきだし皿を差し出されて喉で笑う。
「お前の方がよっぽどボウズじゃねぇか」
「あー…見た目だけ見た目だけ」
実際は何倍も長生きしているんだ、と口にする前に熱燗が出されたことで、サンの意識が酒に集中する。お猪口に注いだそれをクイッと煽れば、面白そうな声がかかった。
「食いもんは入らねぇのに酒は入るのか?」
「入る入る。元々食えねぇ性質(たち)なんだわ。ま、食え食えうるせぇやつがいっから食べちゃいるけどな〜…今日はもうキャパオーバーだわ」
クスリと漏れた笑いが同意してるように思えたサンは、酒を舐めながら首を傾げる。
「ボウズにもそういうやつがいるのか?」
「うるせぇわけじゃないが……犬はいるな」
「犬?」
「野良犬ばっかだけどな」
てっきり1匹だけかと思いきや、男が口にした複数を示す言葉に驚く。
「そんな何匹もいるのか?」
「……まぁな」
サングラスの向こうに見える鋭い目も、コートの内に見えている筋肉も、箸を握る包帯の巻かれた手も、男の向こう側に立てかけてある刀も。1匹ならまだしも、沢山の動物を可愛がるようにはとても見えない。野良犬とはいえ、それを何匹も世話しているとは。
「顔に似合わず動物好きなんだな、お前」
ハハハ…ッと笑いながら熱い酒を喉に流し込んだ。
互いの素性も名前すらも聞いてはいない。それでも、酒の話や行きつけの店の話、己の口うるさい召使いについてや男の野良犬についてなど、他愛もない話をした。
己の気分が落ち着くまでひとりで寂しく飲むつもりでいたサンだったが、思いがけず得た気楽で楽しい時間に6本目の熱燗を半分程空けていた。
ゾクリ。
身体の内側から沸き起こる気持ち悪さに肌が粟立つ。それを引き起こしたのは、吸血鬼にとって命の水でもある血の匂い。普通の人間であれば気づきはしないような微かなそれに、男と飲むことで忘れられていた衝動が再び目覚める。
僅かとはいえ、これだけの芳香だ。指先をほんの少し怪我した程度で流れる血の量ではない。少なくともひとりは死に直面しているであろう。
……何かあったのか?
口元を押さえ、目元を眇めるサンとは対照的に、隣の男はニヤリと唇の端を吊り上げる。
「今日はいい夜だな」
「いい…?」
「血が、騒ぐ」
サングラスの向こう側の瞳がキラリと光る。
「あんたもじゃねぇのか?」
あぁ……そうだ。血が、騒ぐ。
己を見透かすこの男が ―― 同じ笑みを浮かべていた自分が恐ろしくて、慌てて席を立った。
「帰るのか?」
「あ、あぁ……」
「まだ残ってるぞ?」
彼が示すのはお猪口の中には注いだままの酒。徳利の中にもまだ半分程入っているそれは、いつの間にか人肌程度にまで温度が下がっている。熱いなら熱い、冷たいならば冷たいのどちらかならよいのだが、常温に近くなったそれは血を思い出させ……。
「……ボウズにやるよ。温いのは苦手なんだ」
「そうか」
今は、早くこの場を去りたい。その意識しかないサンは彼らしくなく弱々しい笑みを浮かべ、片手を挙げる。
「じゃあ、な」
「またな」
「あぁ、また……」
勘定を済ませ慌しく店を出る。風に乗って届く血の香りがサンの視界を揺らす。
己は決して血に飢えた獣ではない。しかし、嫌って嫌って嫌い抜いてきたはずのそれは、今も自分を魅了して止まないのだ。
……行っては、だめだ。
警鐘を鳴らす声に逆らって、足が勝手に動き出す。
赤い赤い、血の流れる方へ……。
- continue -
2014-2-13
我が子、サンの15話目。
屑深星夜 2014.2.13完成