サン 16

「ボウズと約束」


 ビルの隙間を抜けて数百メートルほど歩いたそこに広がるのは、人気のない廃墟の群。裏町にも繋がるそこは、既に人の住めない場所となって久しい。
 これらの持ち主たちは既にこの世にいなかったり逃げたりしていて、実質上の管理を任されている行政としては早く解体して新しく街を整備したいところ。だが、そのための予算が下りずに放置されてたままになっているのだ。
 ゴロツキたちがたむろしていた時代もあったが、天井や壁が腐食によって崩れはじめて以降は、命の危険を感じてかアジトとして周辺の建物を使うものはいなくなっていたはずであった。
 しかし、既に天井が抜け落ちたあるビルに充満している匂いは、そこに人がいたことを知らせている。
 人間の体内を流れる赤いもの。命の証。
 吸血鬼にとって何よりのご馳走である血の香りに引き寄せられるままフラフラとやってきたサンは、足を踏み入れたコンクリートの床に転がっている死体にニヤリと口元を歪ませる。
 既に息絶えているとはいえ、そう時間は経っていないのだろう。まだ十分に温かい身体の下に広がる赤い海をペチャリと靴底で踏んだ時、「待ちなさい」と覚えのある声が耳に届いた。
 いつの間にか複数の気配がサンを取り囲んでいたようで、制止の声にそれらから向かってくる殺気が弱まった。
「サン? どうしてあなたがここ、に……」
 名を呼ばれて半ば無意識に振り返ったそこには、転がっている死体と同じ軍服を着た青年 ―― 舞蝶が立っていた。しかし、闇色に覆われながらもギラリとした光を宿すサンの瞳は、それが彼だとはっきりと認識していないようで……。
 歪んだ唇から覗く牙を赤い舌が舐める。ゾクリと背筋を這い上がって来たものは、5年前に巨大な血色の龍に見下ろされた時と同じ感覚。自然と尻すぼみになる己の声にコトリと首を傾げる者が、いつも人好きのする笑みを浮かべている男と同一人物とは全く思えない。
 それはまるで人の皮を被った化け物……。
 震えそうになる手を自ら掴んで止め、ゆっくりと息を吸う。

 あの時とは違います。今の彼はまるで夢現にいるような……。

 吸った空気を吐き出したことで少し落ち着きを取り戻した舞蝶は、手にした銃をサンに向けて構える。そして、その目が覚めるように鋭い視線に祈りを込めて射抜く。
「また私に撃たれたいですか? サンっ!」
 ビクリ、反響する声にサンの肩が揺れる。数歩後ずさった彼は、震えながらゆっくりと折り曲げられた手でヨレヨレのYシャツの胸辺りを鷲掴む。

 チャリ…

 二種類の鎖が触れ合うことで鳴った音に瞳の光が弱まって、小さな呟きが零れる。
「……ボウ、ズ?」
 サンらしい笑みはまだその顔に浮かんではいなかったが、恐怖を感じさせていた彼はもういないとハッキリ確認できた舞蝶はホッと息を吐く。
「正気に戻りましたか」
「あ? あぁ……」
「どうして貴方がここにいるのです?」
 まだ状況が掴めていないのか、首を傾げつつも頷いたサンは、銃を下した舞蝶に問われて考える。
 居酒屋で酒を飲んでいた途中、香ってきたものに血が騒いで……逃げるように店を出た後の記憶は、靄がかかったようになっていてはっきりしない。
 覚えているのは……。
「……血の匂いがしてな」
「念のため確認させていただきますが、この惨状は貴方の仕業ではありませんよね?」
「覚えはねぇが…血を使わずにこんなことはできねぇな」
 降参するように上げられた両腕にはどこにも傷がない。自傷用に小さなナイフも持ち歩いているが、ポケットに入ったままだったそれには血もついていない。サンはそう答えながら、今はもう気持ち悪いとしが思えないその匂いに眉を寄せる。そして、血溜まりに踏み入れた靴底を、げぇ…と小さな声を零しながら見つめるのだった。
「隊長!」
 2人のやり取りを窺っていた気配の1つが舞蝶の傍に駆け寄ってくる。彼が率いる部隊の隊員だろう。同じ軍服に身を包んだ青年に、サンと話している時よりも低い声が響く。
「被害の確認を」
「はいっ」
「……任務だったのか?」
 端的な指示に敬礼して散って行く背を見送りながら問えば、一瞬の間の後に傍に転がる死体に静かに顔を向ける舞蝶。
「……彼らの、ですが」
 その無理矢理押し出すようなその声色から察するに、任務は失敗に終わったのだろう。それは、この惨状からも明らかだ。倒れている者は皆軍服を着ていて、ターゲットらしき者の死体はない。
「二小隊いれば十分な相手のはずでした。……こちらの情報が漏れていたか、相手に嘘の情報を掴まされたかしたのでしょう」
「そうか……」
 人の命が失われたのだ。軽く笑い飛ばせるような状況ではない。俯くサンに再び視線をやった舞蝶は、仮面の内側で眉間に皺を寄せる。
「顔色が悪いようですが……貴方、痩せましたか?」
 あの時計屋で会ってからまだ10日程。にも関わらず、こけて見える頬に自然と浮かぶ疑問。
 サンは、青年の問いにヘラヘラと笑って肩を竦める。
「あー…最近、食欲なくてなぁ〜」
「原因は?」
「さぁなぁ〜」
 きっとわかっているのだろう。しかし、視線を強めても眉を上げるだけで答える気の全くない吸血鬼の様子にため息を吐くしかない。
 そもそも、吸血鬼の主食は血であるはずだ。しかし、血が苦手というこの男は一体何を食べているのか。
 ふ、と頭を過った疑問を口にする。
「聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「貴方は普段、何を食べているんです?」
「ボウズと同じもんだけど? ま、血と違って燃費悪ぃんだけどな」
 同じもの……つまり、己が食べているものを想像すればよいはずなのだが、吸血鬼であるサンにそう言われても腑に落ちない。このような時は具体的に聞くべきだと判断した舞蝶は更に問う。
「参考に、今日食べたものを教えてもらっても?」
「あー…夕飯におでんだな。大根1個にはんぺい1枚、こんにゃく1枚」
「朝食と昼食は?」
 サンが両手の平を天に向けて『食べていない』ことを示して見せれば、ピクリと揺れる肩。
「あ、あとは日本酒だな。酒は別腹なんだ」
 付け足した言葉に強まる殺気。
「……貴方はまともに食べもせず、何をしているんですかっ!」
「仕方ねぇだろ? 入らねぇもんは入らねぇんだから」
「あの少年と一緒に食べているのではないのですか?」
 少年がモントであることを把握したサンは苦笑する。
「あいつはトマトジュースしか飲めねぇの。作っちゃくれるが、一緒に食ったことはねぇよ」
「では、いつもひとりで?」
「おぉ」
「隊長」
 舞蝶は、戻って来た隊員の1人に片手を上げて待たせながら頷いたサンを見上げる。
「サン。明日の予定は?」
「特にねぇな」

「では、午前11時にT公園で。安くて美味しい店を紹介しますよ」

「は?」
 答えも聞かずにスタスタと隊員の元へと歩いて行った舞蝶は、既に仕事に意識を集中させてしまったらしい。サンの声に振り向くことはない。
 はぁ……。
 大きく息を吐きながら掴んだ胸には彼からもらった懐中時計が。首にかかった鎖を摘まんで引き上げたそれを手の平に収め、文字盤を見つめる。
「明日11時、ねぇ〜」
 その頬に乗っているのは、いつもの彼らしい面白そうな微笑み。
 血の匂いはまだまだ周囲に充満していたが、家を出た時よりも気分はいい。
「帰るか」
 サンはポツリと呟くと、足取り軽く家路についた。

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2014-2-23

我が子、サンの16話目。


屑深星夜 2014.2.23完成