サンは、カラーコンタクトが落ちそうなほど大きく見開いた瞳で、真向かいに座る人物を見る。瞬きする余裕すらなく、持っていた割り箸をポトリと落としても我に返ることはできなかった。
先ほどまで騒々しかった店内はシンと静まり返り、お世辞にも綺麗とは言えない小さな店が不思議と美しく見えるのは、確実に彼 ―― 舞蝶の所為であろう。
サンが仮面を取った舞蝶を見るのは、この日が初めてだった。
『では、午前11時にT公園で。安くて美味しい店を紹介しますよ』
時間など気にしない男であるサンがT公園着いたのは、約束の10分前だった。
いつも時間など意に介さない彼が、朝から首から下げた懐中時計を確認してばかり。それは、
「ご主人、何か変なもの食べたりしてませんよね……?」
…と、下僕たる少年が思わず聞いてしまうほど珍しいことであった。
「食ってねぇよ」
「昨日……」
「酒しか飲んでねぇって」
事実しか告げていないというのに、モントは、早朝に帰ってしまった客人が使った部屋のベッドから剥がしてきたシーツを抱えたまま疑いの目を向け続けている。それ以上言い返す気にもなれなかったサンは、まだ家を出る時間には早いとわかっていたが、蝙蝠傘を手にさっさと目的地へ向かうことを選んだのだった。
時間まで公園でボーっとするのも悪くないが、雲1つない晴天だ。せっかくの散歩日和。フラフラと街を歩くのも悪くないと考えたサンは、のんびりと遠回りしながら目的地に向かうことを選ぶ。
時にすれ違う人に声をかけ、時に足元の花に目をやり、時に傘の向こうに見える青空を見上げ。ゆったりとした時間を過ごしながらも時計を確認することを忘れることがなかったサンは、余裕を持って待ち合わせ場所に辿り着いたのだった。
5分前にやってきた舞蝶は、時計屋で会った時と同じ裾のひらひらとしたコートを着ていた。仮面はその時とも仕事の時とも違うもので、どことなしか柔らかい表情に見える。きっと他にも色々な種類を持っているのだろう。他の仮面を見る機会があるかはわからなかったが、まだ見ぬそれを想像するだけで少しワクワクした。
二言三言、言葉を交わして向かった場所は、路地裏にある小さなラーメン店。彼が安くて美味しいと言うだけのことはあるのか、昼の時間には少し早いと言うのに、数人ではあるが順番を待つ人の列ができている。
「この程度ならすぐ入れますね」
「何度も来てんのか?」
「まだ2度目ですよ」
彼はそう言ったが、順番が来て店内に入った時、店主らしき30代くらいの男が「らっしゃい!」の挨拶と共に頭を下げた。普通、2度目の来店で顔を覚えられていることは(よほどでなければ)ないが、無数の客に会っている店主の記憶に残っているのは、舞蝶が身に着けている仮面が原因であろう。客が一瞬ざわついたのもその所為だろうが、彼は慣れているのか全く気にしていないようだ。
「何を頼みますか?」
「あー……」
メニューを見せられたが、サンの食欲は相変わらず復活していない。正直に言えば、室内に充満する食べ物の香りすらも気持ちが悪かったが、それを口にはしなかった。
歯切れの悪いサンの様子から内心を読み取ったのか。
「私と同じものにしておきます」
答えを待つ前にそう告げた舞蝶は、水とおしぼりを持ってきた店員にスタンダードな中華そばを2つ頼んだ。
「おまたせしました〜」
コトンとテーブルに置かれた中華そばは、ネギとメンマとチャーシューが乗っている所はよく見るラーメンと同じだが、スープが少しドロリとしている。醤油味か…? と思いながら中身を見ているサンに、舞蝶が割り箸を差し出す。
「サンキュ」
一応受け取りはしても食べられる気のしないサンは、なかなかそれを割ろうとしない。少しでも食べるまでの時間を引き延ばそうと、中華そばの入った器と箸、向かいに座る舞蝶に順番に視線を移動させていると、驚きの光景に目を見開くこととなる。
仮面の向こうから現れたのは、そこにいるだけで人の目を惹きつける整った顔立ち。睫毛の長さは女性かと思えるほどで、その下に強い意志を感じさせる紫水晶のような瞳もまた、視線を捕らえて離さない。
無機質で、見る者によっては恐怖を感じる仮面に隠されていたからか、余計に周囲の注目を集め、先ほどまで騒々しかった店内はシンと静まり返っていた。
パキンと割り箸を割って中華そばに向かう舞蝶は、箸を取り落とすサンを一瞥する。
「早く食べないと、のびますよ?」
「お、おぉ…」
小汚いと言っては悪いが、路地裏の小さなラーメン屋に美丈夫。漸く箸を割りはしたが、あまりに似合わない取り合わせに手を動かすことのができない。そんなサンを気にすることなく、舞蝶は熱々の中華そばをズルズルと啜る。
「私だって食べるときは仮面を取りますよ」
「そ、うだよな」
そうでなければ、仮面の口の部分に穴が開いてるはずである。
思わずそんな仮面を被った青年を想像して噴き出しそうになり、サンは慌てて口元を押さえる。その行動が食欲不振のせいだと思いこんだ舞蝶は、次のひと箸を口に運ぶ途中で止めて問う。
「食べられないものでもありますか?」
「いや、ない」
「では、どうぞ?」
「お、う……」
頷いてしまってから後悔した。
腹は空いているが、それが1番求めているものは200年程前から己が最も嫌悪しているもの。昨夜触れたその匂いと色を思い出してえずく。
今度こそ本当の意味で口を覆うサンに、箸を置いた舞蝶が息を吐く。
食欲がないと言うのは本当なのだろう。栄養が足りていないことを考慮しても、サンの顔色はやけに青白いのだ。理由は教えてもらえない以上想像することしかできないが、彼が血を受け付けないことと関わっているような気はしていた。
どうすれば食べてくれるだろうか。
短時間で巡らせた思考に引っかったものは、少ない出会いの中であったやり取りからであった。
「全部食べなければ奢らせませんからね?」
「…え?」
「貴方のことです。世話焼かせろと言ってまた奢るつもりでしょう?」
「そりゃそうだろ。ボウズのが年下なんだし」
「年齢は関係ありませんよ」
そこでひと口水を飲んだ舞蝶は、ふと思いつく。
「あぁ、そうですね。今日の目的は貴方に食べさせることですから、全部食べることができたら奢らせてあげます」
サンは、姿は若くとも234年生きているのだ。下僕以外の…それも年下に世話を焼かれるのは居心地がいいものではない。
顔を顰めながらもゆっくりと箸を伸ばしたサンは、ひと箸掬った麺を口へと運ぶ。
「……うまい……」
少しのびてしまってはいるが弾力のある麺に、それにしっかりと絡んだスープのコク。口の中に広がる味は久しぶりに感じた旨味であった。
不思議ではあるが、そのひと口で食欲が戻ってきたようで、間髪入れずに麺を啜る。舞蝶は、そんなサンを見て紫の目を細める。
「ここのスープはすりおろしたタマネギがたっぷり入っているんですよ」
「これだけで、白飯何杯もいけそうだな」
「ですよね」
置いた箸を再び手に取って食事を再開しようとした舞蝶は、ふと気になったことを口にする。
「そういえば、ニンニクは大丈夫ですか?」
「別に大丈夫だぞ?」
「ではイタリアンでもよかったですね。伝承に登場する吸血鬼とは色々と違うんですね」
放り込んだチャーシューを咀嚼していたサンは、慌ててゴクリと飲み込む。
「…っ、ああいうもんは、誇張して書かれるもんだ。……ま、嫌いなやつもいたけどな」
『嫌いなやつもいた』
過去形であることに首を傾げると、サンは苦々しい笑みを一瞬浮かべた後、すぐに目の前の中華そばに向き合ってしまう。それ以上何も聞けないと判断した舞蝶もまた、食事を再開させたのだった。
完食したサンが支払いをして、共に店を出たのはそれから5分もしないうちである。
「明日は絶対に私が奢りますからね」
「……明日?」
「家は変わっていませんよね?」
「お、おぉ」
「仕事が終わったら迎えに行きます。では、明日の夕方」
仮面をしっかりと装着した舞蝶は、それだけ言うと、昨夜と同じくサンの返事を聞くことなく歩いて行ってしまった。
そのピンと伸びた背中を呆然と見送ったサンは、弾かれたように笑い出す。
路地裏とはいえ、ラーメン屋の前には列を作っている人が幾人かいて、驚きの視線を寄せられる。が、それでも止められない笑いは、久々に過去を思い出して以降、彼の身体を重くしていたものを外へと吐き出さてくれて……。
「あぁー……ありがとな、ボウズ」
本人にはもう届かないにも関わらず、呟かずにはいられなかった。
- continue -
2014-4-3
我が子、サンの17話目。
屑深星夜 2014.4.3完成