「おぉ、起きたか。ボウズ」
舞蝶が目覚めたのは、知らない天上の下 ―― サンの部屋のベッドの上であった。
「モン」
「はいっ! 舞蝶様、今、お食事お持ちしますね」
パタパタと遠ざかる足音を聞きながら視線を巡らせると、ベッドサイドから見下ろしている漆黒の瞳とかちあった。
これまでと同じようで少し違う柔らかな笑みを浮かべたサンは、しっかり糊付けされた白いシャツを身に着けた腕を伸ばし、舞蝶の前髪をクシャリと撫でる。
「そろそろ起こした方がいいかと思ってたんだが…ボウズ、いつもこの時間に起きてんのか? 体内時計正確だなぁ」
そこで漸く意識がハッキリとした舞蝶は、慌てて身体を起こす。
「ここは!? 私は一体……」
「ここはおれの部屋だ。貧血で気を失わせちまったから、うちに連れて来たんだよ」
『貧血』という言葉で昨夜のことを思い出す。
単独任務で訪れた廃ビルで、ゴロツキどもに殺されそうになったところをサンに助けられた……と思えば、鴉の登場。ずっと追い求めてきた組織の人間ではあったが、その獣人との力の差は歴然で、サンが大怪我を負ったのだ。
今にも息絶えようとしている彼に己の血を飲ませ、自分の手で大事な人を守れたことに安堵したころで記憶が途絶えている。
瀕死だったのだ。本人は嫌いと言ってはいるが、生きるために血が必要だとすれば、あれだけの出血である。貧血になるほど血を吸われたとしてもおかしくはない。
無意識に、昨夜焼けるような痛みを感じた首筋に手を当てると、心配そうな瞳が覗き込んでくる。
「大丈夫か?」
少し身体が重い気はするが、眩暈もない。任務でクタクタになった日の翌日の方がよほど辛いと思った舞蝶は、緩く首を振る。
「問題ありません」
「ならよかった……」
ホッとしつつ、するりと伸びた手が舞蝶の身体を引き寄せる。あまりに自然な動きに反応できないまま、首元に感じる吐息……。
バチン!
慌てて差し込んだ手の平がサンの顔面を打つ。痛がる声が聞こえたが、気にする余裕などなくグイと押しのける。
「な、何するんですか!!」
「何って……大丈夫だっつーから、ひと口いただこうかと」
悪びれもせず首を傾げる姿に目が座る。
「貴方、血は嫌いなんでしょう?」
「ボウズのは別だな」
特別だと言下に告げる言葉に。そして、肩を竦めてニヤリと笑う姿に、思わず赤くなってしまった舞蝶であった。
その後、朝食を運んできたモントに「舞蝶様の身体のことも考えてくださいっ!」と怒られたサンは、血を飲むことを渋々諦め、部屋で一緒に朝食を取る。
メニューに赤飯があった理由は……問わないことにした。
「お仕事が落ち着いたら、いらしてくださいね!!」
そうモントに見送られ、その日舞蝶はサンの家から出勤した。
出来るならばその日のうちにでも訪れたかったが、単独任務についてはもちろん、出会った獣人についての報告など、忙しさに追われてそんな余裕などなかった。
久々に休めたのは、1週間後のこと。
昨夜うちに連絡を取っておいた舞蝶は、少々寄り道してから昼前にサンの家に到着した。
温かく迎えてくれたモントに上着を渡し、ボロボロ度の増した黒コートを身に纏ったサンの後について食堂へ向かう。
そして3人で(といっても、モントはトマトジュースだけだが)ゆっくりと、モントお手製のクリームパスタに舌鼓を打った。
デザートとお茶を用意するためにモントが席を立つ。
先ほどまで会えなかった間ことなどをアットホームに喋っていたのだが、急に空気が硬くなって、互いに何を話していいかわかず口を噤む。
あの夜以降、これほどゆっくりとした時間を過ごすのははじめてのこと。元来、人と話すのが好きであるサンですら、言葉を探して迷宮入りしているようだった。
…そういえば。
ふ、と寄り道して買って来た物の存在を思い出した舞蝶は、椅子の背に置いておいた紙袋を手に立ち上がる。
「そうでした、サン。これを貰ってください」
「ん? 何だ?」
「助けていただいたお礼です」
サンが座っている席まで行って手渡して席へと戻る。
開けてもいいかと問う男の瞳に頷いて見せれば、袋を開けて取り出した柔らかい不織布の包みを取り出し、中から黒いものを引っ張り出す。
バサリと広げれば、それは真新しいロングコートであった。
「……いいのか? 助けてもらったのはこっちだってのに」
「貴方がいなければ、今私は生きてはいませんから」
「気ぃ遣わなくてよかったのに」
そう言いつつも、ポソリと伝わってきた「あんがとな」に舞蝶も微かな笑みを返す。
新しいコートに着替えようと立ち上がったサンは、モントが繕ったのだろう、縫い跡の目立つ古いものを脱ごうとし、ピタリと動きを止める。舞蝶の不思議そうな視線を受けながらしばらく悩んだ彼は、手にしたプレゼントを己の椅子に丁寧に置くと、来ているコートのポケットに手を突っ込む。
「代わりにってわけじゃねぇが、ボウズに渡してぇもんがある。……いや、持ってて欲しいもん、かな」
近づきながら、首を傾げて言い直すサンを見上げる。
「何ですか?」
ズイッと右の拳を差し出され、舞蝶は手の平を上にして手を出す。そこにそっと乗せられたのは真っ黒い小さな布袋だった。
「開けてもいいですか?」
「おう」
頷いておきながら背を向けるサンに、何度か目を瞬いた舞蝶だったが、中を開けて理由を知る。
十字架と銀の弾丸。そのどちらも吸血鬼の苦手な物であった。
さっと袋の中にそれを仕舞い、もうこちらを向いても大丈夫だとサンに合図する。ゆっくりと振り向いた彼の顔はどこか懐かしそうに見える。
「そいつは昔、おれが愛した女が持ってたもんだ」
「どちらも吸血鬼にとって危険な物ですよね?」
「おぉ。好きになった時は知らなかったけどな、実はそいつ、ヴァンパイアハンターだったのさ」
舞蝶には想像もつかない時間を生きてきたのだ。好きになった人物もいただろう。だが、それが吸血鬼の ―― サンの命を脅かす者だったなど。初めて聞くことに目を見開かずにはいられなかった。
「キレてこの手で殺しちまったがな。家族も仲の良かった人間たちも……生れてくるはずだった命も巻き込んで」
そこで言葉を切った男は自分を嘲るように喉を鳴らして笑うのだ。
「そいつを使ってさっさとおれを殺しゃよかったのになぁ?」
彼がいつ死んでもいいと思っていた理由はわかった。しかし、今もまだその命を軽く見ているように思えるその言葉に、鋭い視線で睨みつける。
「これを、私にどうしろと言うのです?」
「お前が死ぬときは、こいつでおれを殺してから逝け」
笑いを消して。舞蝶を見つめる漆黒は、今までになく真剣で。
「……大事なもんを先に失うのは、二度とごめんだ……」
彼らしくない弱々しくて傷ついた声色に、手の平に乗せた小袋を握りしめる。
「……わかりました。貴方ひとりを置いては逝きませんよ。安心してください」
その想いを受け入れて応えれば、男は小さな子どものように笑うのだ。
「けれど、貴方もちゃんと約束してください。私のために生きるんですよ?」
「それでボウズが手に入るんなら、いくらでもするさ」
互いに想い合っていることのわかる言葉に思わず頬が染まる。それを見て嬉しそうに歯を見せたサンは、座ったままの舞蝶を腕に抱き、上半身屈めて頬にキスを贈る。
優しい感触に、胸に広がる幸せ。
コツンと額を合わせて視線を交差させ、どちらともなく目を細めると、今度は唇が重なる。
しかし、僅かに触れるだけで離したサンは、舞蝶の肩口に額を当てて苦笑する。
「あー……失敗したな」
「何がです?」
「腹いっぱい食うんじゃなかったぜ。目の前にこーんな美味そうなものがあるってのに…」
バシン!
甘い雰囲気をぶち壊す言動に、反射的に動いた手がサンの頭を叩く。しかし、肩から顔を上げた彼の顔は、舞蝶から見てもわかるほどに幸せそうに崩れていて。
2人で笑みを交わして、今度は深いキスをした。
その戯れは、モントが戻ってくるまで続いたのだった。
- continue -
2014-5-10
我が子、サンの22話目。
屑深星夜 2014.5.10完成