「ご主人! お客様からの依頼ですから、さっさと行って来てくださいねっ!!」
そう、口うるさい小間使いに追い出されたのは30分ほど前のこと。
依頼と格好よく言いつつも、時計を修理に出して来てほしいと言うお使いのようなものである。依頼主は、近所に住む足の悪くなった老夫人 ―― と言っても、サンにとっては嬢ちゃんでしかないのだが。上流階級の出かと思えるほど上品で優しげな彼女のためならば、サボり癖のあるサンでも大人しく仕事はするのだ。
向かう先は、彼女が定期的な手入れも含めて通っていた時計屋である。
老婦人の懐中時計は、一度大きな傷がついたせいで長期間放っておくとすぐに遅れたり止まったりしてしまうのだ。それでも傷を消すことなく、動くために必要なもの以外、新しい部品に変えることもしないのは、三十数年前に亡くなった夫との思い出があるからである。
夫と連れ立って歩くように、大事に大事にそれを胸を抱えながら通っていた道。彼女が出歩けなくなった数年前からは、指定されたその散歩コースをサンが歩いている。
「おれで悪ぃな。ま、嬢ちゃんとはいっつも一緒なんだし、我慢してくれよ」
いつものように青空の下で蝙蝠傘を差しながら、サンは呟いた。
やってきた店の窓からは数々の時計が見える。それには全く興味のないサンではあるが、その向こうに見える客らしき人物の後ろ姿に目を止めた。
婦人の依頼は2ヶ月に1回のペースだ。そのため、少なくとも10回以上通っていることになるが、サンは己以外の客を見たことはない。これまでになかった珍しい現象に興味を惹かれても仕方がないだろう。
蝶のようにひらりと揺れるコートの裾。真剣に時計を見つめているらしい金髪の後頭部。立ち方や動きから年齢的に若い人間だろうと考えていたその時。背後の机を見るために振り向いたその“顔”に、何年か前の記憶が浮かんでくる。
「あ」
5年前。狂った吸血鬼退治の仕事を持ってきた特殊部隊の若者。……あの時とは違う面をしているが、間違いはないだろう。
久々の再会に自然と緩む口元を撫でたサンは、そっと入口のドアを開け、傘を閉じて中へと入った。
「…これ…」
呟いく彼 ―― 舞蝶が見つめ続けているのは、黒兎がモチーフになった腕時計らしい。
「ボウズ、ウサギ好きだったっけか?」
「!」
軍服に珍しいものを付けているな…と思ったブローチは、コートの裾から連想した蝶であったはず。思わず出てしまったサンの言葉に振り向く舞蝶の表情は仮面に隠れてわからなかったが、ニヤと八重歯を見せて笑む。
「久しぶりだなぁ、ボウズ」
わしゃわしゃと柔らかそうな金髪頭を撫でたサンは、まずは仕事とコートのポケットに入れた古めかしい懐中時計を取り出しながら、店主の名を呼びながら店の奥へと進んだ。
「おい、ボウズ〜? 氷瀏(ひりゅう)〜! 定期健診頼む〜」
「……旦那ァ、そんなに大声で呼ばなくても聞こえてますぜ」
「客が来てることにも気づいてねぇくせに、よく言うぜ」
店の奥から億劫そうに出てきた黒髪の青年の頬には火傷の痕が目立つ。サンが肩を竦めれば、眼鏡の奥の冷たい青色が細められ、店内を確認後にニコリと作り笑いを浮かべる。
「俺がいない方がいい時だってあるもんですよ」
「それでよく店をやっていけるなぁ〜、ボウズ」
「旦那こそ、いい加減そのコート買い替えたらどうです?」
「おれはこいつが気に入ってんだよ」
生意気言いやがって、と店主 ―― 時ノ瀬 氷瀏(ときのせ ひりゅう)の頭を小突いたサンは、ハハッと笑って右手を挙げる。
「じゃ、いつもみてぇに明日な」
「はいよ」
サンの仕事はひとまず終わりである。すぐに帰ってもいいが、家でゴロゴロしていると口うるさい小間使いの小言を自動的に聞かなければいけないと考えると足が止まるもの。
ふと兎の時計を持ったままであった舞蝶が目に入り、マジマジと見つめてしまう。
「……なんですか」
「いや? でかくなったと思ってな」
「そりゃ少しは背伸びますよ」
言いながら隣にある猫のデザインの時計を取る彼はサンを見ない。真剣な様子に首を傾げる。
「時計に興味あるのか?」
「ええ、まぁ」
「ふーん……」
何でこんなもんに興味があるのか、と思うサンだが、思い出の詰まった時計を大切にしている依頼主もいるのだ。好きな者は好きなのだろうと頷いていると、舞蝶の面がこちらを見た。
「あの」
「ん?」
「何でさっさと帰らないんですか? 貴方もうここは用済みでしょう」
「あー……帰ったら仕事あるし……」
それだけが理由ではないが、隠すことのない本心でもある。が故にそう答えれば、舞蝶は深く息を吐く。
「サンは、時計とかに興味は?」
「ねーな。時間気にして生きるなんてごめんだ」
んなもん気にしてたら、ますます生きてたくなくなんだろ。
心の声に気付かれないように、いつものヘラヘラとした笑顔は絶やさない。それは成功したようで、相対する青年は呆れた声を出す。
「待ち合わせとか依頼時間とか聞かれたらどうしてるんです? 貴方そういった仕事もするんでしょう?」
「勘だ」
「……」
無言で見つめられても、事実なのだから仕方がない。200年近くそうして生きてきたが困ったことはないのだ。
堪え切れなかった欠伸に、やっぱり帰って寝るのが一番か、と思った時だ。
「……あ、そうだ」
舞蝶がゴソゴソとコートの下から取り出したのは、ペンダントタイプの懐中時計。
「これ、あげます」
「は?」
「デザインが気に入って買いましたがあいにくペンダントは任務の邪魔になってしまうので。それに貴方は少しは時間を気にしたほうがいいと思いますよ。こちらから依頼することもこの先あるかもしれませんし」
差し出されたそれのデザインは、夜の闇を感じさせる森。自分と同じ匂いがするそれを、思わず手に取っていた。
「お、う……ありがてぇけどよ…ボウズは? その猫の時計でも買うのか?」
「猫じゃなくてこっちの兎にします」
「好きなのか?」
「デザインが気に入りました」
表情はわからないが、心なしか声が柔らかい。本当に気に入っているんだろうと判断したサンは、舞蝶が最初に見ていた黒兎モチーフの腕時計を持ってカウンターへ足を向ける。
「ちょーっと待ってろ、時計の礼に買ってやるから」
「は? ま、待ってくださいよ、貴方にあげたのは私の使い古しですよ? 新品なんていただいたら等価交換にもなりません!」
グイと腕を引っ張って止められて、振り向きながら考えたことは5年前の出来事。あの時のお礼もできていなかったことに気づいたサンは、その理由を足してみる。
「時計といつぞやの治療費ってことで?」
「治療費って……あれはほんの手当だったし任務のうちで」
「じゃぁ奢りってことで? いいから年上の世話焼かせろって」
「……お節介……」
「ボウズもな?」
押し問答を制して舞蝶の手を自分から外したサンは、再び氷瀏の元へ向かう。
「旦那、コート買い替える金はねぇくせに、時計を買う金はあるんですね?」
「こいつが気に入ってんだって何度言わせんだ。文句があんなら買わねぇぞ?」
「文句なんてありませんよ。これからもぜひご贔屓に」
人生経験は己の10分の1程度のはず。それでも、客あしらいに慣れている氷瀏に、自らの頭を掻いたサンは、財布の中から出したカードを彼に渡す。
「さっさと包めよ」
「はいはい、今すぐ」
「すぐ使うだろうから箱は別にな」
「はいよ」
やり取りしつつ、素早く時計から値札を外して箱と共に紙袋に包んだ氷瀏は、
「ありがとうございました〜」
と極上の営業スマイルをサンの背に向けたのだった。
「ほらよ、ウサギちゃん」
「……おいくらでしたか」
「いいじゃねぇか奢りなんだから」
黙って行為は受けとっとけ、と舞蝶に時計の入った紙袋を押し付けたサンは、彼の頭をポンポンと撫でて時計屋を出た。
シャラン、と音を立てて手からぶら下げた時計。
時間に縛られるなど嫌だと思っていたはずなのに、舞蝶がくれたそれを突き返す気にはならなかった。
「せっかくボウズがくれたんだ。使わせてもらうか」
文字盤が見やすいようにだろう。長めの鎖に頭を通して首にかける。一瞬、服の中に入れようかと迷ったが、その重みをしばらく手の中で感じていたいと思ったサンは、胸の辺りで揺れるそれをそっと握った。
- continue -
2014-1-4
我が子、サンの9話目。
屑深星夜 2014.1.4完成