あの子に

あの子に


 ほんのり外が明るくなってきたかしら、って時間。うるさく鳴く鳥たちの声に、目を開けたら……ご主人様はもう机に向かっていらっしゃったわ。
 でも、ご主人様はあたしが目を覚ましたことに気づかなかったみたい。だから、そーっと邪魔をしないようにその姿を見守ってたの。
 あたしが見てる、ってことを知らないご主人様の様子なんてめったに見られないもの。このチャンスを逃すわけにはいかないじゃない!

 書類に向けられた真剣な瞳。
 頬にかかる黒い髪。
 机を僅かに叩く指のリズム。
 サラサラと走るペンの音。

 いつも見つめてるはずの姿。
 でも、あたしに見られてることを知らないご主人様は、“あたしの知らないご主人様”のような気がして、ちょっとドキドキしちゃった。

「…あぁ、葛。起きたのか」
 ふと顔を上げたご主人様の瞳があたしを見つけて、コトリとペンを置いて下さったの。

 おはようございます♪ 実は結構前から起きて、ご主人様のこと見てたんですよ。

 すぐ側まで駆け寄ると、長い指先に喉元をくすぐられ、気持ちよさに目を細めかけたわ。でも、いつもの感覚との違いにハッとしたの。

 あれ…? 熱い?

 でも、一瞬のことだったからよくわからなくって…。
「少し待っていろ。すぐに準備する」
と、立ち上がったご主人様は、あたしが首を傾げてる間にササッと準備したご飯を目の前に差し出してくださったの。
 だからあたしは、少しだけそのことを忘れてたわ。
 けど、食べ終わった後で机に向かってるご主人様を見てるうちに、さっきのは思い違いじゃないって思うようになったの。

 顔色は変わりない。仕事も能率的に、手際よく捌いてる。
 いつも通りなんだけど……ほんの一瞬、眉間に皺を寄せて辛そうな顔をするんだもの。

 朝からアップルちゃんやクラウスさんたちが入れ替わり立ち代り部屋に入って来てたけど、ご主人様の様子には全く気づかなかったみたい。
 あたしがご主人様について間違うはずない、と思ってはいたけど確証はなくって。平然と仕事してるご主人様の膝の上に無理矢理乗って、首元に手を伸ばして……はっきりしたわ。

 ご主人様、すっごい熱っ!!

 でも……どうしよう。他の人は気づいてないみたいだし、あたしの言葉は人間にはわかってもらえないのよね。
 このまま放っておいたら、素知らぬ顔で仕事を続けて……最悪、倒れかねないわ。

 ………本当は…嫌、よ? 嫌だけど…ご主人様が弱ってるところを見せられる、唯一の人間 ―― “あの子”を呼ぶしかないわよね。

 あーあ……。こういうときほど、猫であることが嫌なことってないわ!
 けど、ご主人様が必要としてるのはあの子で、あの子にもご主人様が必要なんだもの。仕方ないわよ……ね。


 あたしは、来客があったときにスルリと部屋を抜け出して、“あの子” ―― セイのところへ行ったの。
 最上階の自分の部屋にいたセイの足元までやってきたら、セイの方があたしに気づいたわ。
「あれ? 葛……どうしたの? ボクのところに来るなんて珍しいね」

 緊急事態なんだから仕方ないでしょっ!? 誰が好き好んで、ご主人様の一番になったあんたのところになんか行くもんですか!
 とにかく、一緒に来てちょうだい!!

「え? 何? 何か用なの?」

 だー…かー…らぁ―――っ!!! 用がなきゃあんたのとこなんか来ないって言ってんでしょっ!?
 黙ってついてらっしゃいっ!!!!!


 あたしの気迫にただ事じゃないと思ったのかしら? 訳がわからないなりに後ろをついて来てくれるセイにちょっとホッとしつつ……あたしはご主人様の部屋に向かったの。

 後は、セイがご主人様の様子に気がついてくれるか。心配なのは……それだけだわ。


 ガチャッ

「……セイ?」
「あれ? シュウ……部屋に居たの? 葛がボクをここに連れて来るから、部屋にいないのかと思ってたんだけど……」
 扉を開けた方も、開けられた方も、お互いを見ながら驚いた顔をしてる。
 でも、あたしはそんなこと気にしてられない。どうやってセイに、ご主人様の不調を知らせようかと悩んでたら……セイが、扉に手をかけたままの姿勢で固まって、じーっとご主人様の顔を凝視してたの。
 ご主人様が怪訝な顔で見返すと、タタタッと一気に詰め寄ったセイは、ご主人様が動く前に額と額を合わせた。
「セ、セイっ!!」
 慌ててご主人様が避けても、もう遅い。セイはぷぅっと頬を膨らませて言うの。
「熱がある……っ! 今日はもう休んでっ!!!!」
 有無を言わせぬその勢いでそう言ったセイは、あっという間にホウアン先生を呼んで来て、往生際悪く机の前から動こうとしなかったご主人様をベッドに寝かせてしまったの。


 ……悔しいけど、あたしじゃこうはいかないわよね。ご主人様は大人しく寝たりなんかしないもの。

 あーあ……。ご主人様の猫でいられて嬉しいけど、こういう時はやっぱり人間……ううん。
 “あの子” ―― セイになりたいって思っちゃうわ。


 それにしても、セイがご主人様の様子にすぐ気づいてくれてよかった。あたしと同じで主人様のことをよく見てて、よくわかってるって証拠よね。

 まぁ、そこだけはお礼を言っておくわ。

 ありがと!

- end -

2016-8-21

8.9の妄想会で考えたもう1つのネタです。

西から帰る途中の新幹線の中、絢辻同士と話していて生まれた葛のお話。
前の話よりは書きかたも安定してきたかな…というところ。

セイを怒鳴りつけてる葛(でも、言葉は伝わってない)が、結構お気に入りですv


2009.9.12完成(2016.8.21修正)